積乱雲


わかってはいたが、一二三の子猫ちゃんというものはどうやら頭がおかしい人らしい。いや、全員がそうとは言わないけれど、とにかく目の前のこの人は頭がおかしい方に入るのだろう。一度見かけたことがある。あれはいつだったか、いやわりと最近かもしれない。1ヶ月もたっていないはずだ。

スーツを着ていない一二三が目の前の彼女に声をかけられて怯えていた。咄嗟に妹だとかなんとか言って誤魔化して追い払おうとしたけれどそれで帰ってくれる気配もなく、ヒプノシスマイクでお帰り願った。


「一二三の妹だなんて嘘、でしょ?」
「……」
「だって貴女…お店に来たり、一二三と雨の中で抱き合ったりしてるもんね?妹と普通こんなことする?しかも貴女みたいな子が。」
「とても悪趣味ですね。人のプライベートを盗撮なんて。」


辛うじて顔は写っていないけれど、その場を見られていたなら確実に一二三が抱き締めている女性が紫陽花であることは知っているだろう。この間の雨の日の盗撮、行動が早すぎる。彼女と出会った次の雨の日にこんな写真をたまたま撮られるなんてないだろう。きっと毎日一二三を監視していたはずだ。

彼女が一二三にしか興味がなくてよかった。この写真が政府に渡ってしまったら、この後ろ姿が紫陽花であると誰かが思ってしまったら。もう二度と中王区からは出れないところだっただろう。顔が写っていたら何をしてでも元データを何とかしてから再起不能にしなければいけなかったけれどこれなら追い払うだけで済みそうだ。


「そのナイフをどうするつもりですか?」
「どうしようかしら?」
「お好きなように。」
「あら?いいの?」
「ええ、問題ありません。」
「話が早くて助かるわ。」


これは正当防衛だ。

ヒプノシスマイクを起動した瞬間に紫陽花の意識は全て飲み込まれた。


「貴女にはお帰りいただきますので。」


また、記憶が曖昧になるほどぐちゃぐちゃにしてしまえば問題はない。彼女はこのままでは犯罪者になってしまう。無花果が言っていた。これは正義だ。罪人を処することも、犯罪を抑制するのも、ヒプノシスマイクの開発も。平和な日常を守り、未来を守る。これは正義なのだ。

そう、これは正しいことなのだから。


「私は世界に許される。」


許さないのは彼女一人なのだから、紫陽花は正義で、彼女が異端者だ。
ちょうど試したいことがあった。

これは未来への投資で、犯罪者予備軍への牽制。良いことしかない。



***


「…っ…はぁっ…いた!」
「………」


ここに辿り着くまではそう時間はかからなかったように思う。後輩から聞いていた場所からはそんなに離れていない路地裏。いや、ここである予感はしていた。

ここは以前、一二三が紫陽花に助けられた場所だ。あの客にとっては多分嫌な場所であるだろう。だからこそ、ここで紫陽花をどうにかすることが彼女にとって鬱憤を晴らすのに最適だと考えた。

子猫ちゃんの姿は見えない。見えるのは紫陽花の後ろ姿。一二三に気づいていないのか全く振り返る気配がない。


「紫陽花さん!」
「…そうか…あの音の出し方は…」


声をかけても紫陽花は振り返らない。

嫌な予感がした。


「紫陽花さん…?」
「なら、もっと…」


恐る恐る紫陽花に近寄ると、彼女の向こう側には女性が一人座り込んでいた。間違いない、彼女だ。紫陽花は一二三を一瞥するとまたヒプノシスマイクを起動させる。


「これは…一体…」
「…リリックも考えなきゃ…どんな言葉にしよう…」
「紫陽花ちゃん!もう止めるんだ!意識なんか、とっくに…」


ない。

焦点の合わない目、震える体、もうとっくに彼女は限界だ。これ以上ヒプノシスマイクを使ったらただじゃすまない。

腕を掴んだ一二三を心底邪魔そうに見る紫陽花はいつもとは違う。あの日、一度だけ見た不気味な紫陽花だった。
それでもあの日と違う。あの日は感じなかった恐怖という感情が一二三に生まれていたからだ。あの時の彼女は一二三にとってはヒーローに見えた。だけど違う。今は違う。見境もなくただ目の前の標的を壊すだけの殺戮機械のような。きっとこれは"いつもの紫陽花"なのだ。


「…離してください。仕事の邪魔です。」
「紫陽花さん、落ち着くんだ。」
「もう少し心的外傷も与えても死にはしません。」
「紫陽花!!」
「っ!」
「もう、大丈夫だから。」


後ろから羽交い締めにするように彼女を止める。動揺した紫陽花の手から素早くヒプノシスマイクを奪う。これが、これがいけないんだ。ただでさえ不安定な彼女がこれのせいでまた不安定になってしまった。ヒプノシスマイクさえなければ、いつだって何だかんだ優しい紫陽花なのだ。

ほら、もう目の前の彼女は目に涙を浮かべて…


「…っ……あ、ああ…私っ…」
「大丈夫、落ち着いて。」
「……っあ…やだ…うそ、だって…」
「君は悪くない。ただ、自分を守っただけだよ。」
「でも…もうしないって…私…決めてたのに…」

いつもの紫陽花に戻っている。