一体どのくらいそうしていたのか分からない。
目の前から迫る男が千寿の結界を破壊した。
次の結界が間に合わない、男は鬼気迫る表情で掌印を組もうとしている。
──殺される、と瞬時に理解すれば身体は護身用にと叩き込まれた動きで呪具を握り、男にその刃を向けた。
「……あ……」
ひゅ、とか細い呼吸の後はただ小さく口を開閉する事しか出来ない。
振り上げられた腕はだらりと地に落ち、男の身体はそのまま千寿ごと倒れていく。
呪霊とは違う感触、霧散することなくのしかかる身体。瞬く間に熱は消え、石のように冷たく固くなる男に思考は停止と放棄を訴えた。
「っ真玉!!」
どれ程そうしていたか。不意に叫び声と共に上に居た男が振り払われ、動揺した七海の顔が視界に写り込んだ。
「…怪我は!?」
「あ……だ、だい、じょうぶ。私はどこも……でも、あの、あのひと」
抱き起こされ肩を掴まれれば漸くたどたどしく言葉を発していく。
千寿の様子に何か察した七海はちらりと男に目を配りながら、千寿の視界から男を隠した。
「ありがとうございます。真玉さんがあの呪詛師を止めていなければ今頃更に被害が増えていたでしょう。本当に……助かりました」
「そ……っか。そう、だよね、よ、よかった」
「ひとまず高専に戻りましょう。怪我が無いとはいえ、家入さんに念の為診てもらった方がいい」
ばさりと自身の上着を血塗れの千寿に被せながら、七海は通話で他の補助監督に経緯を報告する。
その日、真玉千寿がはじめて人を殺めた日だった。
その翌日、千寿はいつもと変わらず補助監督の仕事に追われた。人手の少ない業界で、休むなどという考えは微塵も持っていない。
いつも通り笑顔で生徒や術師に同行し、書類を片付け、時に雑用もこなしていく。
けれど。熱の消え失せた身体を思い出して肉の類が食べられなくなったのは、いつからだったか。
人を手にかけて、それでも生きていかねばならないからと足りない栄養素を飲料やサプリメントで補うようになったのはいつからか。
生徒の同行をする直前、そうして限界を超えた千寿はそのまま倒れて運ばれた。
「栄養失調と過労だな」
医務室のベッドで目を覚ました千寿に、家入が淡々と症状を告げれば隣で話を聞いていた五条が口を挟む。
「そっか、悠仁が血相変えて僕の所に来た時は何かと思ったけど、それ位で済んで良かったよ」
「心配をお掛けして、すみません……もう大丈夫なので、戻りますね」
「馬鹿、千寿はしばらく安静にする事」
「え、でも」
「悠仁達の同行なら伊地知に任せたよ。アイツも千寿が全快するまで仕事は振らないようにしてくれるってさ」
二人の言葉に申し訳なさそうな表情を浮かべながら、千寿はすみませんと再び小さく謝罪した。
「その様子じゃ全快する前に一人でまた仕事しそうだし、僕が時間見つけて様子見に来るからね。食べられそうなものも持ってくるよ」
その言葉通り、五条は時間を見つけては千寿のもとに通い林檎やらお粥やら、食べられそうなものを差し入れては千寿に食べさせる日々を続けた。
「じゃーん、今日はちょっと奮発して美味しいお弁当買ってきたよ!」
「そこまでしなくても……」
「いーのいーの!ちょっとでも美味しいもの食べて味思い出していかなくちゃ」
更に数日後。体調は回復したものの、五条は心配だからと変わらず千寿にあれやこれやと自分の調達したものを食べさせ続けている。
倒れて迷惑をかけた負い目があるのか、不安が残るのか。普段のように断らずに千寿はそれを毎回口にしていた。
そんな二人の姿を遠く見つめていた七海は、徐に二人に近づいて行く。
「あ、七海君久しぶりだね。また出張だった?」
「……お久しぶりです。倒れたと虎杖君から聞いたんですが、大丈夫ですか」
「あ、あー……本当に、迷惑かけちゃって…忙しいのは慣れたけど、思ったより疲れてたみたい。今は大丈夫だよ」
「そうですか、それは何より」
ちらりと向かいに座る五条を一瞥しながら、七海はそういえばと態とらしく千寿に続けた。
「以前提出した報告書なんですが、見直したいので返して頂くことは出来ますか?出来れば直ぐに」
「この前の?大丈夫だよ、ちょっと持ってくるね」
「すみません」
「えー、千寿もう行くの?もうちょっとゆっくりして行きなよ」
「そういう訳にもいきませんから……」
困ったように笑いながら千寿が席を後にすれば、七海は嫌悪感を隠さずに五条に詰め寄った。
「一体何を考えているんですか」
「何?いきなり。それはこっちの台詞なんだけど?僕と千寿の邪魔しないでよ」
「とぼけないで下さい。こんな呪いにまみれたモノを彼女に食べさせているなんて……どういうつもりです」
しん、と重くなる空気の中。五条は小さくため息をつきながら面倒くさそうに口を開いた。
「七海なら分かってるだろ?千寿がなんで倒れたかなんて」
「以前の呪詛師の件が原因だろうということは。ですがそれと何が関係が……貴方、まさか」
「大当たりいー。心配しなくてもちょっと嫌な思い出を封じるだけだよ。千寿に害は一切ない。まあだいたい僕が千寿に危害なんて加えるわけないけど!」
「本当に、それでいいと思っているんですか」
七海の言葉に、五条はくすりと笑みすら浮かべた。
この業界において死は避けては通れない道である。けれど五条は、千寿の中でのそれを無かったことにしようとしている。本人のためといえど決して最善の手では無い。
「確かに、術師としては間違ってる。そこは七海が正しい。千寿なら時間はかかるだろうけど割り切れるとは僕も思ってるしね」
「なら、尚更」
「これは術師としての話。僕のはただの私情だ、私情で千寿の記憶を封じる」
「そんな事をして何になると言うんです」
理解できない、と言いたげな七海に五条は仕方がなさそうに肩を竦めればさらに続けた。
「意味が無いって?大アリだよ。はじめて人を殺した千寿の頭は誰が占める?死んだしょーもない呪詛師だ。そんなの、許せるわけ無いでしょ?」
「そんな身勝手な理由で貴方は彼女の成長すら妨害する、と?」
「言ったろ、私情だって。千寿が考えるのも想うのも、僕以外は許さない。だから最初に殺した人間如きに気持ちを向けて欲しくないの、分かる?」
なんでもないように淡々とそう説明する五条に、七海は複雑な心境で更に問い詰めようと口を開く。
けれど、それより先に五条は畳み掛けてきた。
「だいたい七海に何か関係あんの?オマエとの仕事だったからって責任感じちゃってる?余計なお世話だよ。それにさあ……本音は僕と同じだろ、このまま目ェ瞑ってた方が七海にとってもいい事だと僕は思うけど?」
言葉を吐こうとした七海の口は、五条の言い分に何も返せずに閉じる事を躊躇うばかりだった。
そうして少しの間の後、七海は不満そうな目を向けながら口を噤んだ。
「……ほんっと、呪ってやりたいくらいオマエらは仲が良くてムカつくよ」