はじまり


 しんと静まり返る夜。からからと伺うように医務室の扉が開かれた。
「硝子先輩……」
「千寿じゃないか。珍しいな、怪我でも?」
「あ、ええと、怪我ではなくて」
 しどろもどろに言葉を濁す千寿の様子に、家入は察したように立ち上がった。
「よし、飲みに行こう。車出してきてくれ」

「五条の事だろ」
「うぅ……知ってたんですか?硝子先輩」
「むしろ分かって無かったのは千寿だけじゃないか?随分呑気だと思いながら見てたよ」
 一杯目をひと飲みすれば、家入は当然と言いたげに答えた。
 少し躊躇いながら、それならと千寿は要件をぽつぽつと告げ始める。
「怪我の件から、と言われて……私、そんなこと終わった話だと思ってたから、どう答えていいか分からなくなってしまって」
「一度振ってるんだから、遠慮無く今回も断れば良いんじゃないか?五条にそんなこと返せるのは千寿くらいのものだよ」
「でも……ちゃんと五条先輩が納得する理由がないといけなくて……」
「好きになれないで充分だろう」
「好きじゃない訳じゃ」
「──千寿」
 続く言葉を遮った家入は、じっと千寿の顔を見つめる。そっと白髪の部分を撫でれば、静かに諭すような言葉をかけた。
「君は賢い。察しも良い。時々君が言うことに肝が冷えることが何度もあるよ、きっと私以外もそうだろう。本当は薄々分かってるんじゃないのか?」
「……それ、は」
「他人が隠してるものは目ざとく気が付くのに、千寿本人は分かりやすいな」
「硝子先輩、なんだか今日は意地悪ですね」
 くすりと笑えば、千寿も困ったように笑みを返す。
「自惚れてる訳じゃ、ないですけど……気に入られてはいるのかなって、そのくらいで。本当に、あの時のことずっと引きずってたなんて知らなくて。もう私も先輩も、それなりの年齢じゃないですか。学生みたいな甘酸っぱいような感情とかで片付けて終われないの、分かってるんですけど……それが逆に、どうして良いか分からなくて」
「あいつの家の事か?」
「いえ、そのあたりは五条先輩の事だから自分で何とかしてるんだろうな、とは……一度あんな風に酷いことを言って、五条先輩にも他の人にも嫌な思いをさせていた手前、はい分かりました、なんて答えるのが怖くて」
「……本当、君は優しいな。でもまあその様子じゃ答えはとっくに出てるように見えるが?」
「え、そんな、私は相談しようと思って」
「私個人の意見はあいつは止めておけ、しか言えないな。でもそうじゃないんだったらこれ以上は何も助言は出来ないぞ」
「そんなあ」
 項垂れる千寿を横目に、家入は可哀想に、と密かに思いながら追加の酒をいくつか頼んだ。

「はー疲れた疲れた、全く人使いが荒いったらないよねえ」
「お疲れ様です、五条先輩」
 後部座席でぐだぐだと文句を告げる五条に一言返しながら、千寿は高専に戻るため車を走らせる。
 五条からの告白から一ヶ月ほど。いい加減に返事をしなければと思えば思うほどタイミングを逃し、だんだんと切り出し難くなり気が付けば月が変わった。
 どうしたものかと胸中でため息をつきながら運転をしていれば、唐突に五条は声をかけてきた。
「ねえ、このまま高専戻るのもアレだからさ、ちょっと寄り道しようよ。野薔薇に教えて貰った喫茶店のパフェ食べたいなあ」
「え、あ、まあ……時間はありますけど」
「決まり!今から住所教えるから向かってね」
 言われるまま目的地を変更すれば、物静かな喫茶店へと入り五条は満足げに頼んだ大きめのパフェを千寿の目の前で平らげた。
「で、千寿は何か僕に話があるんじゃないの」
「は、え?」
「ここ最近ずっと僕のこと何か言いたそうに見てきたでしょ、気付かないと思ってた?」
 にこりと笑みを浮かべながらそう答える五条に驚きながら、今を逃せばまた言い出し難くなるかもしれないと小さく息を吐いて、腹を括る。
「……この前、の、お返事、なんですが」
「うん、聞かせて」
「五条先輩が、昔のことそんなに気にしてたなんて、知らなくて……ごめん、なさい。私、すごく酷いこと、してたのにずっと今までと変わらない態度で」
「あはは、本当にね」
 笑いながらさらりと頷く五条に気まずそうにしながら、千寿は話を続ける。
「正直なところ、五条先輩のこと、そういう意味で好きかどうか分からないです。ずっと先輩で、目上の人だと思っていて……今の関係じゃなくなるのが、怖くて」
 呪術師はいつ別れが来るか分からない。それは誰しもが理解している事である。
 五条悟がたとえ最強だろうと、千寿の方は補助監督とはいえ死に近い所に立っている。
 とはいえ、お互いそれでも人間なのだから、どちらが先かは分かる筈もなく。
「大事な人を失うのは、怖いです。呪術師がそんなこと、甘いと思われてしまうかもしれませんけど……分かってるから、踏み込みたくないな、って」
 ぎゅ、と思わず手に力が入る。握りしめた服に皺が付くのも気にせずに、震えだした声を抑えながら千寿は更に答える。
「でも、駄目ですね。いつまでもこんな言い訳してたら……今までずっとお待たせして、すみません」
「返事はオーケー、ってことで、良いのかな」
 するりと下ろされた目隠しから青い瞳が見据えて来る。ゆっくりと腰を上げた五条は千寿の手に自分の手を重ねた。
「え、と……はい。これからは、ちゃんと五条先輩に応えられたらと、思います……」
「嬉しいなあ、ずっとこうしたかったんだ」
 重ねられた手が握られる。にこりと笑みを浮かべた五条はそっと千寿に触れるだけの口付けを落として席から離れた。
「じゃ、晴れて恋人にもなれた事だし、さっさと帰ってこれからの話しなきゃね」
「え、こ、これから?」
「そうだなあ……とりあえず一緒に暮らそうか!」
 にこにこと上機嫌に帰り支度をする五条に、千寿はぽかんと置いて行かれながらも咄嗟に返事をする。
「それはちょっと……無理です」
「え、いやいやなんでそこで断るの?今応えてくって言ったばっかりでしょ?」
「それとこれは別ですよ、いきなり言われても……」
 急降下した機嫌のまま、高専に戻っても拗ねた様子の五条に千寿がデートを提案されるのは、また暫く後のこと。



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