Nostalgia


蛇に呑まれる


 千寿が五条の部屋へ入ることは滅多にない。
 五条はよく千寿の部屋へ入り浸るものの、用もないのに他人の部屋へ入ることは、千寿にとっては未だ抵抗があった。
 偶然。書類の為に仕方なく本人不在の自宅へと足を運んだのがいけなかった。
 必要な資料を見つけて帰ろうとしたその時。がたん、と玄関先で音がすれば家主が帰宅したのだろう、と千寿は玄関へ向かう。
「すみません、悟さん。勝手に入って」
「……ああ、千寿?や、良いんだけどさ。何か用?珍しいね、僕の部屋に居るの」
「え、いえ、ちょっと資料を貰いたくて……見つけたので帰ろうかと」
「ちえー、せっかく来たのに帰るの?でもまあ僕も戻ったばっかりだしなあ、仕方ない」
 珍しく気怠げにそう告げる五条の異変に気付けば、心配そうに声をかける。
「あの、大丈夫ですか?任務先で何か……」
「だいじょーぶ、ただちょっと疲れちゃったからさ、一人にして欲しいかな」
 ぽんぽんと千寿の頭に手を乗せて、リビングへ向かう五条に戸惑いを隠せない。普段なら疲れたからとべたべたとくっついて離れない筈なのに、帰れと告げる様子にただ事じゃないと追いかける。
「……どーしたの千寿。いつもならそれじゃあお疲れ様ですー、なんてすぐ帰っちゃうくせに」
「だ、だって、悟さん様子がいつもと違うので……怪我、してないですよね」
「はあ……ほんっと、オマエは鈍いんだか鋭いんだかたまにわかんなくなるんだよなあ」
「わ、あ、あの?」
 ぐい、と腕を引かれ五条の腕の中へすっぽりと入れられる。乱暴に外された目隠しから覗く瞳に、普段は見せない熱を孕んだそれに思わず言葉が詰まった。
「今日ちょっと厄介なのが相手だったんだよね、別に余裕で祓える奴だったけど。久々に荒れたっていうかさ……だから、いつもみたいに優しく出来ないんだよ」
 腕を掴む五条の手は、ギリギリと普段より力が込められていく。痛みに顔を顰めれば、心なしかトーンの下がった声色に千寿はびくりと震えた。
「ね。だから、もう帰ってくれると酷いことしないで済むんだけど」
 ぱっと掴んでいた手を離せば、いつものような笑みで五条はそう告げる。そのまま千寿を見ることなく背を向けて歩きだそうとするのを見つめれば、千寿は咄嗟に背中へ手を伸ばした。
「あの、悟さん、何か出来ることがあれば」
「──聞こえなかった?帰れって言ってんの。これでも大事にしようと思って抑えてんだけど」
「……大丈夫、です。このまま悟さんを一人にする方が、なんだか良くない気がして」
「は、普段は拒否るくせに。酷いことするよ、加減なんか出来ないし」
「わ、私、一応悟さんの彼女、やってますから。ちょっとでもそれで落ち着くなら」
「……馬鹿だなあ。後で後悔しないでよ」
 再び千寿の手を掴めば、そのまま足早に寝室へと歩いて行った。


 時計のアラームが鳴り響く。
 重い瞼を開きながら手を伸ばそうとして、千寿は走る激痛にうめき声を上げた。
「い、いたたた……」
「あ、起きた?千寿」
 ガチャリと扉の開く音がすれば、ラフな格好をした五条が心配そうに声をかけてくる。
「さとる、さん」
「あーあ、声ガラガラじゃん。ごめんね僕のせいで」
「……いえ、それは、気にしてないです」
 昨夜の事を思い返して、少し赤くなりながらもゆるりと首を横に振る。
「でも動けないでしょ。さっき伊地知に僕と千寿一日休むって言っといたから、ゆっくりしてなよ」
「え!?そ、それは駄目ですよ!今日だって仕事が……い、う、いたっ……」
「そんなんで仕事出来るなら良いけど?だいたいまともに起きられもしないでしょ、いいから今日は安静ね。僕に責任あるし、今日は一日ついててあげるから」
 慌てて起き上がろうとすれば、身体に痛みが走りへなへなと布団へ再び沈んでいく。
 反論出来ない五条の言葉に諦めれば、すみませんと小さく謝罪を零した。
「はい、じゃあとりあえずお風呂行こうね」
 ひょいと千寿を抱え上げれば、五条は風呂場へと足を向ける。
「その後は朝ごはん用意してあるから、一緒に食べようね」
「え、料理、出来たんですか?」
「あー……そっか。失礼だなあ、千寿と一緒にご飯作る日のためにこれでも練習してるんだよ」
「その、悟さん、昔から出来合いのものなんだとばっかり」
「僕を何だと思ってるの?これでも一通りの事は出来るようにしてるんだよ」
 心外だと言いたげな表情に、本当にそうなのかと疑いの目を向けながら千寿は五条にされるがままにじっとしていた。
 風呂から上がればてきぱきと別の服へと着替えさせられる。部屋着を不思議そうに見つめていれば、五条も首を傾げた。
「どうかした?」
「あ、いえ、これ……どうしたんですか?」
「えー?やだなあ。もとからあったよ?千寿が泊まる用の服」
「いえ、はじめて見ましたけど……」
「……ちえ、疲弊しててもそんなに鈍ってないんだねえ。そうだよ、千寿にプレゼントしようと思って買っておいたやつ」
「またですか?こんなに色々私のもの、買わなくても」
「いーの!僕がしたいだけなんだから。男の服なんてつまんないもんだよ、千寿の服選んでる方がよっぽど楽しいの」
「そういう、ものですか?」
「そうだよ」
 腑に落ちないものの、これ以上言い合っていても平行線だと思えば千寿が折れて大人しく五条にリビングへと運ばれていく。
 テーブルには出来たばかりの朝食が並べられていて、本当に五条が作ったのかと意外そうに手を合わせた。
「……お、美味しい、です」
「でしょー?ほら僕ってば何でも出来ちゃうんだから」
 にやにやと満足げに笑みを浮かべて此方を見つめている五条に、性格さえ直ればと失礼なことを浮かべながら、ゆっくりと朝食を食べていく。
「あー、いいなあ。千寿が僕の作ったもの食べてるの」
「そりゃあ、今日の私は殆ど動けませんから」
「うんうん、今日は全部僕がやってあげるから。千寿は何にもしないでゆっくり此処に居てね」
「……お世話になります」
「別に今日だけじゃなくてもいいんだよ?明日も明後日も、ずっと千寿の面倒僕が見てあげられるし」
「流石にずっとは……明日にはきっと痛みも引きますから、大丈夫ですよ」
「いいって、気にしないでよ。話は僕から通しておくよ?」
「あの、悟さん?」
 雲行きの怪しくなってきた会話に、困ったように相手を見つめればサングラス越しの目とかち合う。
 じっと此方を見つめるそれに、既視感がある。昨夜のそれと同じような色の瞳が、千寿を捉えて離さない。
「本当はさ、補助監督も辞めて欲しいくらいなんだよね。僕と一緒の時間が増えると思って根回ししたけどさ、他の奴の仕事にもついて行かないとでしょ。ムカつくんだよなあ」
「……それは、ちょっと」
「あは、言うと思った。でも本音だよ。こうやって今すぐ此処に置いて、全部僕がやってあげたい。千寿はなーんにもしなくて良いからさ」
「で、でも、悟さんだって忙しいですよね、お互い出来ることはやっていかないと負担が大きすぎますよ」
「心配してくれるの?優しいね。でも大丈夫だよ、僕最強だし。千寿のためなら家のこと全部するのだって苦じゃないし……そうやって僕がいないと駄目になってくれないと、困るしね」
 背筋に寒気が走る。いつもの飄々とした冗談ではなく、本気で言っていると嫌でも感じ取れてしまう事に思わず視線が泳ぐ。
「な、なにを、言って」
「ずっと我慢してたけどさあ……こうやって動けない千寿の世話してたら、やっぱり諦めつかなくなっちゃったよね。僕の作ったものだけ食べて、僕が用意したものだけ着て、僕だけの千寿って感じで気分良いし」
 思わず食事の手が止まる。どこか楽しげに告げる五条に、頭の中は警鐘が鳴り響く。
「あれ、どうしたの?もうお腹いっぱい?」
「……あ、えと、すみません」
「謝らなくても良いのに。昨日のせいで食欲もまだあんまり無かったかな、お昼はもう少し軽くしとくね」
 かたん、と席を立つ五条は千寿の方へと近づいていく。反射的に下がろうとして、バランスを崩せば慌てて抱き留められた。
「こら、駄目だよ下手に動いたら。危ないから大人しくしてて」
「や、あの、悟さん、離して」
「……そんな怖がっちゃって、可愛いなあ。心配しなくても明日動けるようになったらちゃんと帰してあげるよ。大丈夫、千寿に嘘はつかないから」
「……は、はい」
 あやすように額に口付けを落としながら、笑みを浮かべて五条はそう答える。ほっとしたように気を抜けば、そのままソファへ横に寝かされる。
「じゃ、片付けてくるからちょっと待っててね。テレビとか見てていいよ」
 いくつかクッションを敷かれながら、ひらひらと手を振って五条はその場を離れる。
 深いため息を吐きながら、もう少し身の振り方を考えようと千寿は心に誓った。

 後日。距離を開ける千寿に五条が不機嫌さを増していく光景を見た高専関係者が数名目撃されていた。
「あー!やらかした、最悪、振り出しに戻ったんだけど!千寿にあんな警戒されちゃったのどうしよう……怯えるとこ珍しくて可愛いなんて思っていじめすぎた、もう最悪」
「自業自得じゃないか」
「うるせー硝子!」



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