何処へ帰ればいい?


喧嘩を、した。とても些細な事だった。それこそ世のカップルからしてみれば日常のような、本当に些細な事。それが私にとっては怖かった。
「もう、出てく」
「…は、出てけよ」
売り言葉に買い言葉。「出てけ」なんて、彼が本気で言ったわけじゃないことくらいわかっているのに。カッとなって玄関を飛び出した。頬に当たる冷たい外気が心地いい。夜中だと言うのに騒がしさは息を潜めず大通りを闊歩する。異形の物が行き交う中、ふと歩みを止めた。"安全"という言葉が御伽噺の様なこの街で、私はどこへ行けばいいのか。帰る場所などとうに潰えた。応えてくれ、神性存在とやら。私は……この街で、どこへ帰ればいい?涙は既に涙腺の紐を解いてしまったらしい。伝った涙で頬が、首が濡れていくのがわかる。

「…馬鹿野郎」
穏やかなテノールが鼓膜を揺らす。次の瞬間私を包んだのは嗅ぎ慣れた煙草と柔軟剤の香り。見上げずとも彼が誰なのかがわかった。
「…いや、……馬鹿は俺か」
安心感からなのか、愛おしさからなのか。わからないまま嗚咽が溢れ、彼のシャツに塩辛い染みを作っていく。
「帰るぞ」
「どこに、」
告げられた優しい言葉に漏れたのは醜く可愛げのない一言。再びドロドロとした自己嫌悪が肚を満たしていくのがわかった。深い深い溜息が吐き出される。
「ったく。帰るっつったら家に決まってんだろうが、ばーか」
「…ほんとに?」
「他にあんのか?……言っとくが、俺はねえよ。」
再び涙が溢れそうになり、咄嗟に彼の手を掴んだ。そうだ。私にも、ダニエルにも、帰る当ては1つしかない。1つしかないその場所で、身を寄せ合うのだ。叶うならば、どちらかの命が尽きるまで。