はじまりの狂騒歌_2

「___だ、」
ダニエルくん、と声を漏らしてしまいそうになる。
もしこの男性がダニエル・ロウでないのなら"ただ人違いをしただけ"で済むだろうが、もし、もし本当にダニエル・ロウであるなら、私はこの場にいる誰よりも怪しい女だ。
あきがその思考回路に辿り着くより先に言葉は口から零れ落ちたが、幸運な事に全てを告げる前に彼女はダニエルに身体を引き寄せられていた。
彼はそのまま左足を軸にして、くるりとあきの座っていた場所に背を向ける。状況が理解出来ずにいると、先程まであきが座りこんでいた場所に轟音と共に落ちて来たのは一台の車だった。ぐ、とダニエルが小さく呻く。
…庇ってくれたのか。
あきはどうにか礼をと声を掛けようとしたが、布に埋もれたままの口ではもごもごと唸ることしか出来ない。後方では「警部補!」と叫ぶポリスーツの声が飛び交うが、それに対してダニエルがまっすぐと「うるせえ!制圧に集中しろ!」と叫び返すのがわかった。
ダニエルはあきの体を離すとパトカーの方を見遣り、「ついてこい」と告げた。
乱暴に発される言葉、声、行動。全てがあきの知っている彼の姿だった。
少女はゆるりと、目の前の男の顔を見上げる。
何故ダニエル・ロウが居るのか、そもそもここはどこなのか。
…いや、彼が本当のダニエル・ロウであるなら、異形が闊歩するこの街の名称はただ一つだ。

__異界と現世が交わる街、"ヘルサレムズ・ロット"


あきが腕を引かれるがままにダニエルの後ろをついていくと、彼はパトカーの近くでぴたりと止まった。
その外装に目をやれば、もう心の中では完全に理解していた現実があきの目の中に飛び込んでくる。
"HLPD"
ああ、やっぱりか。そうだよなあ。
事実を受け止めた彼女の脳内に浮かんだのは絶望でも悲しみでもなく、いつもの諦観だった。まあ、それしかないもんなあ。やる気のない声色で諦めた様なことを言う脳内の自分に、あきはそっと溜息をついた。
「で、怪我はしてねえのか」
車から救急セットを取り出したダニエルは、あきの方を振り向いて尋ねる。
「あ、いや…怪我と言っても、擦り傷とか、で……」
ぼろ。
おさまっていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
突然泣き出した事に驚いたのかダニエルは目を見開き、「泣くな泣くな」と僅かに動揺した様な態度であきの頬にハンカチを押し当てた。
そのハンカチには彼の大雑把な生活を思わせる様にしわが寄っていて、けして綺麗に伸ばされたものではなかった。それでも頬に触れた布の柔らかさに、止まることを忘れた涙がダニエルのハンカチを濡らしていく。
「すみませ、っ、ご迷惑を、ッ…」
「…あー、…ガキの保護も仕事だ。気にすんな。」
子供のようにしゃくり上げながら涙を止めようとするあきにダニエルは慣れない慰めを口にした。まあ、あきはNY…もといHLの市民でもないわけだが。
どんな状況であれ好きに泣けばある程度身体もメンタルも落ち着くのか、いつのまにかずぶ濡れになっているハンカチも必要なくなったところでダニエルがあきに問いかけた。
「お前、あんなところで何してたんだ」
警察官としてダニエルがあきに尋ねることといえばこれしかないだろう。ヘルサレムズ・ロットという街で、いや、この街じゃなかったとしても。爆発や銃撃が起こっている場所のド真ん中でうずくまるなんて自殺行為でしかない。そんな彼女を怪しんでいるのか、心配しているのか。どちらにせよ、あきには知る由もない。
(実を言えばその時ダニエルは警戒をしつつも気の弱そうなあきを心配していたのだが、自分のことで手一杯の彼女にそんな事が分かるはずもなかったのである。)
少女に出された選択肢はふたつ。
正直に事を話して狂人、もしくは薬物中毒者扱いされるか、適当に嘘をついてその場を逃れどこかでひっそりと死ぬか。
あきは泳ぐ目線を隠すようにダニエルからそっと目を逸らし、優しく瞼を伏せて内心で独り言つ。
…ああ、長いとは言い難い今までの人生で生きることにはさほど執着もないと思っていたが、私にも人並みのものは備わっているらしい。
「…気付いたら、あそこに居ました。」
「……どういうことだ。」
訝し気に表情を曇らせるダニエルにあきは早鐘を打つ心臓を抑え込むようにきつく手首を握り締め、はっきりと告げた。
「私、さっきまで、…日本に居たんです。」
「日本?」
「薬物やってるとかじゃないんです!普通に歩いてたら、なんでか、ここに、…」
気合を入れたは良いものの即席の気合など所詮ハリボテでしかなく、おさまったはずの涙がじわりと少女の瞳に浮かぶ。もういっそこの涙腺を引っこ抜いてやろうか。伝えたい言葉を探しても、勝手に溢れる涙があきの邪魔をする。
決して泣けば済む、などと思っているわけではない。泣いて状況が変わることなどたかが知れている。
それでも今か今かと目元から溢れるのを待っている水滴を相手に見られたくなくて、あきは堪らず俯いた。
初対面の小娘が発する言葉の信用性などゼロに等しい。そんな戯言を彼は信じるだろうか。
目の前の男の顔を見上げることすらできず、小さく震えながらコートのベルトをじっと見つめていた。
口を先に開いたのは、ダニエルだった。
「署まで来い」
話はそこで聞く。映画では絶望の代名詞であるその言葉に、彼女は酷く安堵したのだった。