はじまりの狂騒歌_3

生まれて初めてのパトカーに乗り、窓の外に目を向ければ異界人や人間(ヒューマー)達が何もおかしなことなどないという様に歩いて行く。あきの中ではずっと画面の向こうの出来事だと思っていた風景が今、ガラスを一枚挟んだ向こうに広がっている。指先で引き絞った様な痛みが、少女の胃に走った。

あきが警察署に到着するとダニエルに取調室の様な場所に通され、四角い机を挟んで向かい合う様に腰を下ろした。変わったことなどない。なんなら映画や漫画では見慣れている空間だ。それでも、容疑者を罰する場所であるこの空間は少し酸素が薄い様に感じた。勿論、"感じた"だけであり、この場所の酸素濃度が他と比べて低いわけではない。

「名前と生年月日、それから住所はわかるか?」
ダニエルにそう尋ねられ、怪しまれないよう咄嗟に何か言葉を探すも、散乱するパズルの一ピースを見つけるように纏まらない思考に言い淀む。この世界に来た自分がどう動く事が正解なのかがわからない。考える時間すら与えられなかったこの状況で、あきにとって最善の行動が何かなど、考えられるわけがなかった。脳に散らばる言葉をとにかく拾って組み立てる。嘘をつくことすら出来なかったのは生まれ持った性質か。
「っえっ、と、名前は……"春秋(ひととせ)あき"、です。生年月日はーーーー…」
あきが自身の情報をゆっくりと話せばダニエルは手元の紙にペンを走らせた。あきの角度からでは何を書いているかまではわからない。
それからHLに訪れるまでの間、何をしていたのかとダニエルに尋ねられる。あきはまとまらない頭の中を整理しつつ、その日はいつも通りだったと何の身にもならないことを話した。
ダニエルは少しの間黙り込むと「ちょっと待ってろ」と告げ、あきを残して部屋を出て行った。

数分してダニエルが連れてきたのは、白衣を羽織った、雰囲気の優しい長身の女性だった。ロングの赤毛を緩く巻いていて、眼鏡とそばかすが可愛らしい。
あきが慌てて立ち上がるとその女性は優しく微笑み、右手を差し出した。
「はじめまして、私はアン・スコット。」
「は、はじめまして、春秋あきです…!」
日本人にとってはまだまだ慣れない握手を交わすとアンはあきの身体を頭のてっぺんから脚の先までじっくりと見つめ、こくりと小さく頷くと足元へしゃがみ込んだ。
次の瞬間、魔法陣の様なものが足元に浮かび上がった。
ひ、とあきの引きつった声が漏れる。アンは咄嗟に後退ろうとするあきを気にも止めず、「よし」と何かを確認した様に顔を上げた。
「…あの」
「ロウ警部補。やっぱり連続魔術転移事件の新被害者ですよ。」
あきの声が聞こえていないのか、夢中になると周りが見えないタイプなのか、アンはドアの前に立っていたダニエルへ顔を向け、親指を立てた。
いや、説明の一つくらい欲しいんですが。あきは文句を言いたくなる気持ちを抑え、柔らかく尋ねようと口を開こうとした瞬間、顔を顰めたダニエルが言葉を発した。
「お前はまず説明をしろ。相手は犯罪者じゃねえんだぞ。」
あきも言葉を遮られた事に不満はあるようだが、本音を言うならこの際それはどうでも良い。あきが知りたいのは「この世界にとって自分は何者なのか。」「自分の存在は許されるのか。」ということ。ただそれだけが、この世界のイレギュラーであるあきが縋れるたった一つの事柄なのだ。
無意識のうちに向けていたあきの縋るような目線に気付いたのか、アンは少女の方を向いて優しく笑う。立ったままもなんだし、と促されるままに椅子へもう一度腰掛けると、アンはあきの正面の椅子に、ダニエルはドアの隣にある椅子に腰を下ろした。
「説明もなしにごめんなさいね。私は術士。HLの外だとあまり馴染みもないでしょうけど、映画や漫画に出てくる魔術士とおおよそ同じだと思ってくれていいわ。…わかるかしら」
「…はい、なんと…なくですけど。」
「それで、今貴方の足元に発動させたのは、直近で何か術をかけられていないかを確認する術式。科学に例えて言うなら指紋の検査ね。術式の癖や発動条件の痕跡などから犯人を特定するの。そしたら、貴方がかけられていた術式が今HL内外で起こってる、"連続魔術転移事件"のものと一致した。」
「れんぞく…まじゅつ、てんいじけん。」
難しげな言葉の連続についていけていないのか、あきが聞き覚えのない言葉を小さく復唱すると、アンは一度頷き、説明を続けた。
「術式に引っかかった人を無差別的に転移させる…移動させる術。最初は五番街から六番街へって、小さな距離くらいのものだったんだけど…最近ではHL外から呼び寄せるほどにまでなってきたのよね。しかも今回は6700マイルも離れた日本。ここまで距離のある場所から転移されて来たのは貴方が初めてよ!」
「は、はあ…」
楽しそうに言葉を並べる彼女にどういった反応を返せばいいのかもわからず、経験したことのない事件の連続だったあきの疲弊した頭では適当な相槌を打つ程度が限界だった。
自分が来たのは恐らくこの世界の日本ではない、ということを伝える余裕もなく、マシンガンの様に語られる"魔術"の話にいつギブをかけようかと迷っていると、突然部屋の隅に置かれたモニターの電源がつき、映像が流れ出した。
『やあ諸君、堕落王_フェムトだよ!!』
「ーーーーーーッ!!」
これ、は。
今まで何度も何度も繰り返して見てきた。間違える筈がない。あきは咄嗟に立ち上がろうとしたが足を縺れさせ、大きな音を立ててパイプ椅子が倒れる。そのことすら意識の外側に追いやる程の衝撃だった。

「堕落王、フェムト…ッ!」
きっとこの世界の歯車は、既に回り出している。
画面の向こうで楽しそうに笑う男の姿を、少女は初めて"恐ろしい"と感じた。そして、その恐怖こそが今の自分を"当事者"たらしめるものなのだと示していた。