4話 創作のミューズ
スランプだから作れない。そんなのは甘えだ。……そう思っていた時期が僕にもあった。
今日の今日までは、手を動かさなければ作ることなどできない。だから何はともあれ手を動かすことから……というのが持論だった。
そう、こんなことは今までなかったのだ。
石膏粘土に触れても、なにも形作れない。
スパチュラを握っても、なにも描き出せない。
ここ二週間ほど、人形どころか、ラフ案すらまともに作ることができていなかった。
そう、すべてはあの日──水森さんと、彼女さんの姿を見た時からだ。
あの日から、彼とは連絡を取っていない。ラフと見積もりも送っていないし、クリーニングから帰ってきたセーターすら渡せないままでいる。
──一体どんな顔で水森さんに会えばいいのか、さっぱりわからなかった
人形作家として屋号を掲げておきながら、ちょっと心が揺らいだらこの有様だ。情けない。
つい二週間前までは、すぐそこに人魚姫の姿があったのに。今となっては彼女の姿は随分と遠くに遠ざかってしまっている。
否。遠ざかっているのは、人形の姿だけではない。
──「人形作家」である僕の姿すら。遠ざかっているようで恐ろしいのだ。
僕があの人の心に触れられるのは、この手が作り出す人形を介してだけだ。人形作家でない僕は、あの人にとってその他大勢でしかない。出会うことすらなかったであろう、正真正銘、赤の他人。
──人形の作れない僕は、何者なのだろう?
そんな疑問がよぎる。
初めて人形を作ったのは、中学生の頃だった。
学校の美術の授業だったと思う。粘土でなんでも好きなものを作りなさい、という課題が出た時に、女の子の人形を作ったのが始まりだった。今思えば拙い出来だったけれど、当時憧れていたクラスメイトから大袈裟なくらいに褒められたのを覚えている。
そこから人形というものに興味を持って、学生なりに少ないお小遣いで道具や材料を揃え、人形作りをするようになったのだ。
人形を作ることが僕の全てだった。
人形だけが僕を、他人と繋いでくれるから。
僕の周りにいる人は僕が人形を作っているからこそ出会えて、繋がれた人ばかりなのだ。あの時のクラスメイトだってそう、作家仲間だってそう。……もちろん、水森さんだってそう。
人形を作れない僕は、誰とも繋がれない。誰にも見てもらえない。
──ああ、そうか。
──僕にとっての人形は、誰かと繋がるためのものだったんだ。
それに気づいた瞬間に、両の目から涙がぼろぼろと溢れ出す。
ただひたすらに、人形たちに申し訳なかった。
魂を切り分けるようにして作った人形たちを、他人と繋がるための道具のように扱っていたという事実に、胸が張り裂けそうだった。
僕はソファベッドからゆるゆると身を起こす。
ふらりと立ち上がって、窓を開けた。
カーテンがふわりと靡いて、とっくに日が落ち切った真冬の空気が部屋に吹き込む。
僕の自宅兼アトリエはぼろっちい二階建てアパート「まよい荘」の最上階にある。築数十年のアパートが自殺防止なんて対策をしているわけもなく、ベランダの柵に足をかけて体を持ち上げれば、簡単に屋根の上によじ登ることができた。
緩やかな傾斜の屋根に立ち、眼下を見下ろす。
思いの外、低い。この高さから飛び降りて死ねるかどうか……打ち所が悪ければそりゃあ死ぬだろうけど。
屋根の縁から飛び降りてやろう、と前に一歩、足を踏み出そうとした、その時。
「おやぁ。先客か」
男の声が、聞こえた。振り返ればそこには、スウェットの上に半纏を着た無精髭の男がいた。片方の手には徳利とお猪口がのったお盆を持っている。……どうやらお盆を片手に持ったままここまでよじ登ってきたらしい。器用なことだ。
「……岸波さん?」
彼は僕の隣人である自称俳人、岸波彼岸。三十代前半だという話だが、だらしない服装や浮世離れした言動のせいで実年齢より十は老けて見える。
「君も月見かい、青羽くん」
「……いえ、そういうわけじゃ」
「まあ座りな。そんな端っこに突っ立ってると風に煽られて落っこちるぞ」
岸波さんは屋根の上に胡座をかきながら手招きした。
落っこちるために来ているのだ、なんてことを言うわけにもいかず、仕方なしに彼岸先生の隣に腰掛ける。
「随分暗い顔じゃないか、スランプかい?」
「……まあ、そんなところ、です」
「それはそれは。いいことじゃないか」
「いいこと? どこがですか」
突然作品が作れなくなることの、どこがいいのだろう。
岸波さんは、こちらを見てうっすらと笑った。
「作家というのは……否、人間というのは、スランプを脱した時にこそ成長するものだ。わかるか?」
「……あんまり」
「だろうな」
「馬鹿にしてます?」
「いいや。むしろ心の底から心配してる。多くの作家は初めてのスランプの時点で筆を折っちまうからな……君が創作をやめてしまいやしないか、心配だ」
そう言いつつ、岸波さんは徳利からお猪口に酒を注いだ。
「なんかあったんなら話してみ。この通り飲んでるから、明日にゃ全部忘れてるよ」
「……失恋、を、しました」
「失恋? フラれたの?」
ほんの少しためらってから、僕は口を開いた。
「恋人と歩いているところを、見てしまったんです。それっきり、何も作れなくなって……。ラフすら描けなくなってしまった」
岸波さんは、天の月を見上げながら、お猪口を傾けている。
聞いているのか、いないのか。よくわからないな、と思いつつ、僕は言葉を続けた。
「それで、気づいてしまったんです。……僕が人形を作るのは、誰かと繋がるためだったんだって」
そう。結局僕は人形を作ることでしか、水森さんの気を引けなかったのだ。
ただ、それだけの話。
「きっと、水森さんと出会わなかったら、もっと早く作れなくなっていたと思います」
「そうか。……その水森さんという人は、創作のミューズというやつだったんだな、君にとって」
「創作のミューズ?」
「谷崎潤一郎氏にとっての松子夫人。サルバドール・ダリ氏にとってのガラ夫人。……創作の源となるインスピレーションをくれる人、だね」
「そう……かもしれない、です」
確かに、水森さんを見ていると休みなく手が動く、という実感はある。好きな人を女神に例える、なんてちょっと恥ずかしいけど。
「そうかそうか」
岸波さんはどこか嬉しそうに笑い、お猪口の中身をぐいっと飲み干す。
「ミューズを失ったら、か。……確かにそれは、俺も今まで通りやっていける気がしないな」
「岸波さんにもいるんですね、その、創作のミューズ?」
「うん。ミューズっつっても、男だけどね。俺が俳句やるのは、そいつのため」
「……なんか、意外です」
失礼を承知でそう答えれば、岸波さんは大きな声で笑った。
「よく言われる。……ま、でもいいんじゃねえの、別に。他人と繋がるために創作したって」
「え」
「そりゃ、美を追い求めて創作する奴ほどの気高さはないかも知んねえけどさ。世の中、そんな奴の方が少数派だぜ? ましてや君は作家として飯食ってんだろ」
商売やるなら、他人との繋がりほど大事なものってないからな。そう言って、岸波さんはこちらを見る。
「目下の問題は作れなくなっちまったってところだろうが、それもまあ……そんな時だってあるさ。俺たちは人間であって、創作をする機械じゃないんだから」
「機械じゃない……そう、ですね」
「だからさ、作れない時は作れないでいいんだって。何も死ぬことはない」
その言葉は適当なようで、ひどく優しい。心配をされているんだ、と気づいた。
「……最初から、わかってました? 僕が飛び降りようとしてるって」
「さあね」
岸波さんは肩をすくめて、飄々と笑う。
「ま、心配することはないさ。作る力ってのは、知らない間になんとなく戻ってくるもんさ」
「そういうものなんですかね……」
「おうよ。俺もそうだったからな」
「……ありがとう、ございます」
「ちょっとは荷が降りたかい」
「はい。……もうしばらくは、信じてみようと思います」
そう言って僕はすっくと立った。部屋に戻ろうと、傾斜の緩い屋根を下っていく。
──ちょうど、その瞬間のことだった。
びゅう、と。強い風が吹きつける。
それは地表で感じる分には大したことのない風だったのだろうけれど、この高さで、不安定な足場では──体を煽られて体勢を崩すには、十分すぎる強さだ。
体制を崩した僕は、屋根の縁から足を踏み外し、空中へと身を投げ出した。
「う、わっ!?」
──生きようとした瞬間に、こんな。
近付く地面に恐怖して、ぎゅ、と目を瞑る。
──ああ、こんなことなら。
──水森さんに、想いを伝えておけば良かった。
背後から聞こえる「青羽くん!」という声を感じながら、僕は意識を手放した。