5話 人形作家の告白




 清潔な光に満ちた病院の待合室は、薄着でも過ごしやすい暖かさだった。
 薄緑色の検査着を身につけた僕は、待合室の隅のソファに蹲っている。
「あ、こんなところにいた。青羽さーん!」
 聞き馴染んだ声が、僕の名前を呼んだ。
 顔を上げて声がした方を見れば、見知った姿がある。
 目があった彼女は、片手に持った大きな紙袋を揺らしながらぱたぱたと走ってくる。
 トレンチコートを羽織った小柄な女性だ。低い位置で結ったふわふわの茶髪を、肩から前へ流している。
 彼女は千種燕。僕が住むアパート「まよい荘」の管理人だ。
「燕さん」
 小さく会釈をして声に応えれば、燕さんは僕の前に立ち、ちょっと不機嫌そうな顔でこちらを見下ろした。
「もう……彼岸先生から電話あって、めちゃめちゃびっくりしたんですからね」
「……ごめんなさい」
「ただでさえいいとこ無しなんですよ、うちのアパートは。その上事故物件なんて勘弁してください」
 言葉そのものには棘があるけど、声音からはこちらを心配しているのがなんとなく伝わってくる。
「申し訳ありません」
 誠心誠意頭を下げれば、盛大な溜息が落ちてきた。
「体は大丈夫ですか? 目立った怪我はないと聞いてますけど」
「はい。今日は念の為の検査入院です」
 昨夜、屋根の上から落下した僕は意識を失い、病院へと搬送された。
 落ちた先が花壇の柔らかい土の上だったからこれといった大きな怪我もなかったけれど、念のための検査入院を言い渡され、今に至る。
 ──これで落ちたのがアスファルトの上だったら、と思うとゾッとする。
 人というのは思いの外簡単に死ぬものなのだと、思い知らされた気分だった。
 ──飛び降りるために屋根の上に上がっておいて、実際落ちたら死ななくて良かったと怯えているのだから笑えない。
「とりあえず、生きててよかったです。はい、これ」
 差し出された紙袋の中には、着替えとスマートフォン、鍵、財布が入っていた。
「できるだけ荒らさないようにしたので、勘弁してくださいね」
「いえ……むしろ、ありがとうございました」
「じゃ、届けるものは届けたので。何かあれば連絡ください」
「はい。お手数かけてすみませんでした」
 燕さんはひらひらと手を振ると、踵を返して立ち去った。
 紙袋からスマートフォンを取り出す。ロック画面にはプッシュ通知が一件来ていて、それが新着メールを知らせるものだと気づいた。僕はその差出人の名前を見た瞬間、慌ててソファから立ち上がった。
 病棟に四方を囲まれた中庭に移動し、新着メールを恐る恐る開く。
 そこに表示されていたアドレスは、水森さんのものだった。時刻は昨夜七時。ちょうど僕が屋根から足を踏み外して落っこちた頃だ。
 本文は、ラフの送付が遅れていることについての確認と、僕への心配、もしこのメールを見たら電話をくれないかという言葉が並んでいる。
 流石に出ないだろう、と思いつつ、電話をかけた。……しかし、コールが二回鳴った後、「はい、水森です」と涼しげな声がする。
「青羽です。水森さん、すみません、心配をかけてしまって」
「いえ、こちらこそすみませんでした。珍しく音信不通だったので」
「昨晩はちょっと病院にいて……」
「えっ……もしかして、まだ体調が?」
「ちょっとアパートの屋根から落ちてしまって……検査入院なので心配しないでください」
 その瞬間、水森さんが息を飲んだ音が聞こえた。
 まずいな、言い方を間違えたかもしれない。そりゃそうだ、屋根から落ちた、なんて言い方をしたら誰だって自殺未遂を疑うだろう。
 案の定、次に水森さんから発せられた言葉のトーンは低くて、声音は酷く切迫していた。
「……青羽さん、無理は、しないでください。私は貴方の人形が好きですが、それ以上に貴方自身を大切にしてほしい」
 水森さんの優しさに、申し訳なさが募った。
 なんでこんなにも、僕を心配してくれるんだろう。
 その優しさに応えられないのが、辛かった。相変わらず人形の姿は思い描けず、作る意欲も湧いてこない。
 僕は今にも決壊しそうな感情の堰を必死に支えながら、口を開く。
「水森さん……ごめんなさい」
「謝る必要なんて、」
 水森さんの言葉を遮るように、言葉を続けた。
「僕はもう、人形が作れません」
 電話口で、「え」と驚きの声がした。当然だ、こんなにも突然、作品が作れなくなるなんて僕自身予想だにしていなかった。
「僕は。作る理由を、なくしてしまいました」
「作る、理由……?」
「そうです。……僕は、ミューズを失ったんです」
「ミューズ……? 創作の女神、ですか?」
「はい。……僕は、その人に見てもらいたくて、人形を作っていたんです。僕がその人に見てもらえるのは、人形を介してだけだから」
 涙は雨のように降り注いで、コンクリートの地面に水溜りを作る。
「……恋を、していたんですね。青羽さんは」
「そうです」
 息を吸って、吐いて。喉の震えをなんとか抑えて、言葉をこぼした。
「僕は、貴方に。水森さんに、恋をしていました」
 電話口で、水森さんが息を呑む気配がした。
「勝手に愛して、勝手に失恋したんです。ごめんなさい、洗面所に口紅が置いてあるのを見てしまって……先日伺う予定だった日に、駅で女性と会っていたのも……盗み見るような真似をしてごめんなさい、気持ち悪いですよね、ごめんなさい」
 長い長い沈黙の後、水森さんが「青羽さん」と口を開いた。
「今、どちらの病院にいらっしゃいますか?」
 あまりに予想外の問いに、「うぇっ?」と変な声が出てしまう。
「……未城総合病院、ですけど」
「退院はいつ頃ですか?」
「検査は終わったので、夕方に結果聞いて退院ですけど……?」
「わかりました。……青羽さんさえよろしければ、なんですが。少し、話しませんか」
「え」
「迎えに行きますよ。未城総合からですと、公共交通機関では随分かかるでしょう」
 今までの重いトーンとは一転して、軽やかな声だった。
 あまりにも突然のことで黙り込んでいると、水森さんが「……嫌、でしょうか」と不安げに言う。
 嫌なわけがないのだけれど、どうしようもなく怖かった。会ったとして、一体何を言われるのだろう。
「嫌、じゃ、ないです、けど……」
「では、また連絡をください。メールでも電話でも大丈夫なので」
「は、はい」
「待ってますから、ね?」
 水森さんは年を推すように言って、電話を切った。
 一体何を考えているのだろう。
 抱えていたものを全部曝け出したと言うのに、わざわざ時間を割いて、迎えに来てくれるなんて。
 ──期待を、してしまうじゃないか。
 そんな醜い思いを心臓の底に沈めながら、僕は待合室に戻った。




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