桃色ハプニング

 今日は担任が放課後に出張があるだとかで、HRが常より随分と早く終わってしまった。普通の部員ならばこの空いた時間に自主練にでも励むのだろうが、生憎と私はマネージャーであるのでそうも行かない。そもマネージャーの自主練とは何だろうか、ドリンクを早く作る練習だったりスコアボードを正確に書くだとかだろうか。

 ジャージに着替えて練習のための準備を終えてしまえば、どうにも手持ち無沙汰だ。他にやることもなく、部室の掃除に邁進していると不意に部室の扉が空いた。

「む、みょうじか、掃除とは関心だな」
「お疲れさまです真田副部長、他にやることもないので……副部長も今日は随分と早いんですね?」
「担任が体調不良で早退されてな、早くついてしまった」

 なるほど、大体似たような事情だったようだ。まだ掃除は途中だけれど、部員が来たのなら部屋から出なければならない。マネージャーがいては練習着にも着替えられないだろう。

 そう考えて掃除用具をロッカーに仕舞おうとすると、ふと真田の声がこちらを呼び止めた。

「ああいや、出て行かずとも良い」
「と、言いますと?」
「コートの方に不具合が見つかってな、業者が夕方頃に来るそうだから今日の部活は急遽休みだ」

 それはまた急な話だ。真田から連絡を聞くやいなや、携帯がメールを受信する。件名からして、部活休みの連絡網メールだろう。見事にいき違ってしまったな、と少しだけ肩を落とす。

 しかしそうであるのならば、何故この人は部室まで来たのだろうか?練習もできる目処が建たないなら、コートを訪れても意味はないだろうに。

 疑問符を浮かべる頭を見透かしたかのように、真田が答えを口にする。

「今日の日誌に休みの旨を書こうと思ってな、部室なら連絡が届いていないものが来たら伝えられるだろう」
「私みたいに早く来すぎちゃった部員もいますしね」
「もう少し早く連絡網を回せれば良かったのだがな、それに関してはすまない」
「いえいえ副部長のせいでは」

 ならば今すぐに帰ってもいいのだろうけれど、せっかくならキリの良いところまで掃除を終わらせてしまいたい。それにこんな時でもなければゆっくりと掃除もできまい。

 そう伝えれば好きにしろとの返事をもらう。お言葉に甘えて、真田に背を向けて掃除に取り掛かり始めた。

 端から見ていけば、足りない備品や器具の損傷が改めてわかった。走り書きのようにメモはしておいたから、あとは連絡ノートにでも書いておけば次回の部活内ミーティングでどうするか決められるだろう。積もったホコリを粗方拭き終えた所でノートを手に、真田の後ろ側に立って声をかける。

「今お話良いですか、副部長」
「どうした、何かあったか」
「いくつか欠品してる備品がありまして、共有事項の欄に書いちゃっていいですかね?」
「そうだな、手間を掛けるがそうしておいてくれ」
「お安い御用です」

 今日は正規の部活動ではないからか、真田の雰囲気は常より少し柔らかい。芯の通った生真面目さは見て取れるものの、苛烈にも近い厳しさは鳴りを潜めている。鬼の副部長なんて呼ばれることもあるけれど、今目の前にいるのは中学3年生の男の子という印象が強かった。

 そういえば、私はこの人と部活以外でまともに話したことがあっただろうか。もちろん打ち上げや慰労会なんかでは会話もするし、数度ほど他の部員混じりで遊びに行ったこともある。けれどやっぱり、どんな時でも真田は立海テニス部の副部長なのだ。

 だからこそ、ほんの少しの柔らかさを持ってこちらを見る彼は新鮮だった。意外と丸みを帯びて可愛らしい髪型なのだななんて、まじまじと見つめてしまっていたきらいはあるかも知れない。

「まだ何あったか?」
「ああスミマセン、部活がお休みだと副部長の雰囲気も違うなと思いまして」
「急な休みだとはいえ、気を張ってばかりでは然るべき時に備えられんからな」
「そんな時の副部長とお話できるなんて滅多に無いですしね、ちょっと浮かれちゃったのかもしれません」
「……そうか」

 フイと視線を逸らされたのに、気を悪くしたかと気を揉んだが、少しだけ照れくさそうな口元が見えたので安心する。何というか、先輩に対して不遜かもしれないけれど、今日の副部長はやっぱり可愛く見える。

 まあ、あんまり長居しすぎても邪魔してしまうだろう。掃除も落ち着いたし、ノートを書いて今日はさっさと帰ろう。そう考えながら歩いたのが良くなかったのかもしれない。

 ズル、と何かを踏む感触がして身体が前のめりにバランスをくずす。ふと足元を見れば物干しから落ちた雑巾が、シューズの下敷きになっていた。

「あ、ちょ、副部長よけて、あ!」
「みょうじ!」

 咄嗟の声がけだから敬語も使えなかったけれど、バッチリと彼の耳には届いたらしい。さすが三強の名に恥じぬ運動神経という感じで、驚いた表情の後に、私を受け止めてくれようとした手が伸ばされるのが見えた。

 本当は踏ん張れればよかったのかもしれないけれど、悲しいかな唯のマネージャーにそこまでの運動神経はない。間抜け面のまま、私は目の前に広げられた腕ごと床に倒れ込むばかりだった。

 ドシンと私達が床に倒れる鈍い音と、カラカラと椅子がひっくり返る音が部室に響く。呆けたのは一瞬で、その後にはまるで私が押し倒したような姿勢を自覚できた。これはマズい。

 やばいやばいやばい、脳内に響くのはそれだけだ。もうこれは土下座も覚悟しよう。そう決意して床に両手をつくと、何か小さなものに指先が触れたのに気がついた。思わず反射的に指がそれを挟む。

「ぅ、あ」
「えっ?」

 いくらか思考がクリアになって、視界も明瞭になる。いま私は副部長を下敷きにして、その上に跨っている。私が床だと誤認して手をついたのは副部長の胸板で、じゃあ私が今しがた、触れたものはつまり。

 呆然と彼の顔を見下ろせば、己の口から出た甘い声を恥ずかしがったのか熱を持って赤くなっていく精悍な顔が見えた。まるで生娘のような反応に、私の嗜虐的な心がズクリと波打ったのが自覚される。あまりの事に脳髄がクラクラとする。ああ、いけない。

 そっと私が彼の上から退いても、まだ身体を強張らせているのが見てわかった。そうなれば私ができる事はたった1つだけ。三指をつき、その上に額をつけて背中を丸める。

「責任を……取らせてください……」

 生まれてはじめての土下座は、完璧すぎる所作を持って世界に披露されることになった。うら若き中学生女子がこれとは、家で両親も泣いている。父さん母さん、あなた方の娘はいま全身全霊を持って責任を果たそうとしています。脳内で泣くのはお止めください。

「な、何の責任だ」
「何がってもう分かりきってんじゃないですか言わせないでください責任を取らせて下さい」
「いやしかし、受け止めきれなかった俺にも責任の一端は」
「そんなもんないです私が罪です私こそが罪です副部長は清廉です」

 いくらか落ち着きを取り戻したらしい副部長が、土下座を未だやめない私に向かい合って膝を折っているのがわかる。何だこの人、優しさの権化か?誰だよ鬼の副部長なんて呼んだの、切原か。許せねえな切原。次の部活で切原のドリンクだけ柳先輩にプロデュースしてもらおう。

 破茶滅茶になっていく脳内とは裏腹に、腹の底でジュクジュクと蠢く欲の存在を私はもう理解しきっていた。

 自他共に厳しく真面目なこの人の顔を、乱したものは私以外にいるんだろうか。垣間見えた快感に頬を染めて恥じらうような表情を見たものは、私以外に。なんて、たまらない。

 心と身体が一致してしまう前に、どうにかこの事態を終わらせなければ。未だ頭を上げない私に狼狽える副部長の気配を感じて、いっそう土下座の姿勢を整えた。スウ、と息を吐いて声を張り上げる為に空気を飲む。もうここまできたら腹をくくる他ないのだから。

「真田副部長を!辱めた責任!どうか私に取らせて下さい!」
「えっ」
「あっ、丸井先輩おはよう御座います」

 第三者の声がして、ふと顔を上げれば丸井先輩がドアを開けて立っていた。訳のわからない状況にさしもの丸井先輩も戸惑ったようで、声を上げたきり何かを考えている。丸井先輩の身体向こうには、絶句して立ち尽くしたジャッカル先輩の姿も見える。場が混沌としてきたぞ。

「……真田、みょうじに襲われたの?」
「大体そんな感じなんで責任取ろうとしてます」
「えっ、マジで?ヤバいじゃんみょうじ」

 丸井先輩の言葉には答えず、突然の第三者の介入にフリーズした真田副部長の手をそっと握る。
 数秒経ったあとに、やっと手を握られていることに気がついたのか飛び退こうとはしていたけれど、ガッチリ掴んだ私の手のひらがそれを許さない。

「あの、私副部長のこと恋愛的な目線で見てるというか、そんな自分の思いに気づいてしまったというか、その、絶対幸せにするんで責任取らせてもらえません?」

 告白にしては支離滅裂だけれども、取り繕った美辞麗句など浮かびもしなかった。何か言いたげに口が開いては閉じるのを、穴が空く程に見つめる。自覚した自分の欲が、目の前の彼の一挙一動を逃すまいと目を見開かせる。

 数分の逡巡のあと、思い悩んだように息を吐くのが見えた。震えるような言葉が口から漏れ出たのを耳がとらえる。

「か、考えさせてくれ……」
「はい、もちろん」

 実は私達のこんなやり取りは丸井先輩に動画で撮られていて、レギュラー陣に瞬くほどの早さで拡散されていたのだけれど。

 ご挨拶はいつが良いか、式は和風洋風どちらが良いのか、副部長何着ても似合うだろうな。正装のそれを乱す権利を認めてほしいな、なんて考えていた私は知る由もなかった。