心知らずの君は美し
※財前が横恋慕
「あんなウチな、赤ちゃん出来たんよ」
「……は」
目の前で愛おしそうに腹をさすりながら吐かれた言葉に、図らずとも心臓が飛び出そうになった。彼女が嫁いだ日からいつかこうなると予想は出来ていたはずだ。それなのに驚いてしまうのは、きっとどこかで目を背けてきたからだ。
「なまえそれ、旦那には言うたんか?」
「出張帰ってくるまでは言わんことにした!サプライズっちゅうんかな、嬉しいやろ」
父親が知らないというのに、言ってしまえば赤の他人の自分が子の存在を知っているとはどういう状況なのか。難しい表情に心の内を悟られたようで、彼女はニマニマと笑う。
「やってなあ、光むかぁし言うたやんか?人生の節目になんかあったら真っ先に教えろー、てな」
その言葉が聞こえた途端、目の前が眩む心地がした。恥ずかしいほどに遠くなった夏の日の残り香だ。
中学生の夏に、好きな女の子に告白すら出来やしなかった子供が宣った約束だ。親友という立場の安寧に甘んじて、それでも将来彼女の隣りにいるのは自分だなんて思い込めた日々は随分と昔になってしまった。
中学2年生の全国大会が終わってすぐに部員たちの前で、はにかむような顔でふたりが交際を吐露したあの日の胸中は。今なお胸を灼く後悔と嫉妬の炎はくすぶり続けている。
「仮にも先輩差し置いてそんな重要報告聞くんは、流石に思うところあるわ」
「年中ふてぶてしい光くんにもそんなケンキョな心あったんやなあ」
「まあでも約束覚えてたんはなまえにしては偉いな、エエ子エエ子やって褒めたるわ」
「褒めたって褒めたって!生まれたら褒める側にまわらなアカンし、自分の褒められ回数溜めとかんとな!」
あの夏の日から数年経って、大人と呼ばれて久しくなるほどに年齢も重ねたと言うのに。己は未だ彼女に心を囚われたままで動けやしない。
己とて、この年になるまで恋人と呼べるものをつくらなかったわけではない。事実燃え上がるような恋と呼べなくとも、穏やかに時間を共有できる相手はいた。けれど結局最後には、彼女たちには己の元を去らせてしまった。
どう足掻こうと手に入らない、彼の人の横でほころぶ彼女の笑顔を忘れる事は結局出来なかった。自嘲なら掃いて捨てるほどに重ねてきたものだから、今更新たな自罰は生まれやしない。
「そんでなぁ、まあ一番はウチとしてもな、2番目はパパで、3番目は光かなぁ?」
「何の順番や」
「生まれた赤ちゃんの抱っこの順番!仲良しさんの光には幸せのお裾分けせな罰あたんで!」
「……そういうん、普通はなまえか先輩のオトンやらオカンやら優先やろ」
「ああ忘れとったなあ、じゃあ光は仲良しさん枠最優先チケットやるわ」
もしも、自分が手を延ばして彼女を拐ってしまえたら。生まれてきた子供が父を知る前に、自分がその場所に入り込めたら。
そんな夢想も、その時彼女はどんな顔をするかと考えるだけで足の竦む心地になる。臆病者の安寧は、近しい友という役割を己に与えていた。
「アレかな、安産祈願に神社でも行っといた方がええんかな」
「都合の良い時だけ祈られても神さん困りそやけどな」
「きっと祈られるぶんには悪い気せんて!」
そういって喫茶店を出る準備を始めた彼女を、数十分後には助手席に乗せてハンドルをきることになるのだ。口からはわざとらしいため息をついていても、自身はどんな顔をしていることやら。
いっその事、と考えては心の中で首を振る。濁った勇気に身を任せるには、心をくすぐる信頼の温もりを己は知りすぎてしまった。
先程こっそりと撮った彼女の横顔を、彼女の伴侶に送信する。きっと直ぐにスマートフォンはけたたましく通知の音を鳴らすのだろうけれど。悔しかったら今すぐ来てみろと打ち込んで、笑うぐらいは許されたかった。