甘美なる病
なまえと俺が恋人になって、少しの月日が経った。出会って交流を重ねたあとに、俺から告白した。初めて彼女と言葉を交した瞬間に、己の身を貫く雷撃のような感情が走ったのを覚えている。
「はじめまして、みょうじなまえです」
「俺の名前は幸村精市、隣の席同士よろしくね」
「幸村くん、幸村くんだね、春に咲く菫みたい綺麗な髪の毛ね」
「ありがとう、そう言われると照れるな」
はにかんで言葉を紡ぐ唇の動きを、一言一句聞きもらすまいと耳を傾けたあの日は今でも忘れやしない。ひと目見て好ましいと感じた、言葉を交して確信に変わった、感情は一日ごとに肥大した。『一目惚れ』とそう一言で終えてしまえば、あまりにも陳腐な感情だった。
己の見目が世間一般のそれよりも整っているらしいことを、中学生ともなれば流石に気がついていた。こまっしゃくれた事を言うようだが、頬を染めた同級生が話しかけてくるのは一度や二度では無かったし、2月半ばには甘い菓子と共に手紙を貰ったこともあった。
けれど如何せん、自分の興味はテニスに熱中し没頭することに全て向いていたものだから。向けられた好意を忌避することは無いにしても、いまいち理解しきれないと言うのが本音だった。
それなのに嗚呼、今も深々と刺さるように主張する己の鼓動は何だ。彼女の一挙一動をつい追いかけてしまうのは何故なのか。恋は盲目とは言うが、盲てしまえばなまえを見ることも叶わなくなるならばお断りだ。
彼女と出会った日に、己の頭の中身はすっかり作り変えられてしまった。恋は、コートに立ってボールを打ち返すときのあの高揚感にも似ている気がする。みょうじなまえを手に入れる。そう決意してからはあっという間だった。
「なまえ、お味はどうかな?」
「すごく甘いよ!すみれの砂糖漬けなんて初めて食べたけど、とっても可愛いね」
「お気に召したようで良かったよ」
春も近づいた麗らかな休日に、今日のデートは自宅での茶会だった。紅茶に浮かぶ紫色に、なまえはひどくはしゃいでいる。こんなに喜んでもらえるのなら、手間隙かけて手ずから作り上げた甲斐があったというものだ。
最初は出来合いのものを取り寄せようとも思ったけれど、すぐに思い直した。どうせなら、彼女の血肉になるものは自分の手によるものであってほしい。幸いガーデニングには精通していたから、季節外れの育成にも事欠くことはなかった。
彼女のためだけの、小さな温室。種から育ててこの手で花弁を摘みとった。蕩けた砂糖やら何やらをまぶして作り上げた砂糖漬けは、己の手の上で小さく咲いた。
「沢山あるから全部食べても構わないよ」
「もう精市くんったら、私そんなに食いしんぼじゃないよ」
「でもなまえの為に用意したものだから、食べてもらうほうが俺は嬉しいけどなあ」
「そういうものなの?」
「そういうものさ」
不思議そうに首を傾げる所作すら、余すことなく可愛らしい。彼女を目の前にすると口元は端からゆるゆる解けてしまいそうになる。今だって意識してようやく穏やかな笑みを形作っているのだから、恋の持つ力とは恐ろしいほどだ。
少しの逡巡のあとに、なまえがスプーンの上に砂糖に塗れた菫の花をのせる。口に含まれて、咀嚼する。解けた花弁を喉が飲み込んで、腹の中へと落ちていく。
まじまじと見つめる間にも、多幸感が己の身を支配していた。彼女の身に、己の作り出した食物が溶けていく。他でもない彼女自身が、俺のようだと形容した花が!
「なまえ、砂糖が付いているよ」
「えっ、どこかなあ?ここ?」
「ううん、こっちだよ」
彼女の小さな顎に指を添えて、上を向けさせる。口端についた砂糖を舐め取れば、面白いほどに赤く染まる。熟れた林檎のようで美味しそうだ。本当に食べてしまえたら、腹の中に閉じ込めてどこにもやらないのに。
けれど本当に食べてしまえば、なまえはいなくなってしまうから。それはとても困るのだ。
机の上に置かれた皿から、行儀悪く指で砂糖の花をつまむ。口元に運べば、戸惑いながらも口を開けてくれるのでそのまま押し込む。砂糖を舐め取ろうと触れた舌の熱さに目が眩んで、そのまま口内を荒らしまわろうとする指は必死に抑えた。
色恋に疎かったとはにかむなまえは、戯れのような頬へのキス一つで真っ赤に顔を染め上げる。ふとした時に彼女を心ゆくまま食い荒らしそうになる、己の獣性を抑えるのにもこの頃は慣れてきた。
テニスであれば己のすべてをさらけ出して試合に臨むところだけれど。生憎とこれは駆け引きであって闘いではないのだ。だから今日は、甘い花弁を満足気に咀嚼する彼女の姿だけで良しとしなければ。
「なまえは本当に美味しそうに食べてくれるから、そういうところ可愛くて俺は大好きだよ」
「え、あ……ありがとう?」
ほら、またそうやって顔を赤らめて俯いてみせる。それがこうしてこちらを散々に煽ってみせる事を彼女はまだ分かっていないようだ。
腹の中を俺の色で染め上げてみせる頃には、それを理解してくれるだろうか。つい、と飲み干した紅茶は甘美なまでの味で喉を潤してみせた。