さびしい月夜
暦の上では初夏となっているにも関わらず、急に崩れた天気のせいでその夜は随分と肌寒く、冷たかった。
暗い夜空に浮かんだ星たちの並びもしっかりと夏のそれであるのに、寒い空気の所為で感覚は秋のものへと置き換わってしまいそうだ。
自室でもある司書室に、貸出手続きを終えていない本があるのに司書が気が付いたのは、つい先ほどだ。昼間に書架の整理をしていた時に、うっかり手持ちの資料とまぎれさせてしまったらしい。
帝國図書館は有碍書の浄化、浸食者たちへの対処を目的とした施設である。しかし、公においては数ある国定の図書館のうちの一つであり、カモフラージュも兼ねて一般の図書館と同じように貸出業務も行っている。
所在不明の本があるとなれば、明日の業務は少なからず滞る。自分のミスでそんな事態を招いてしまうのは忍びない。夜もとっぷりと更け切ったころ、司書は件の本を片手にそっと部屋を抜け出した。
寝間着姿で部屋の外を出歩くなど見るものがみれば「だらしない」と叱られてしまいそうだが、こんな夜では出歩くものもそういなかった。ひんやりとした廊下の冷気に、ブルリと体を震わせる。廊下は静まりかえって、足音すらも敷かれた絨毯が吸い込んだ。
窓の外、向かい側の建物に、ぼんやりと明かりが灯っているのが見える。あそこは確か食堂であったはずだ。飲み好きの者たちが集まって酒盛りをしているのだろうか。窓際に映る人影たちは随分と楽しそうに揺れている。音は聞こえずとも、自分の他にも誰かが起きているのは、夜更かしに対する奇妙な連帯感を抱かせた。
そうこうしているうちに、いつのまにか図書室の扉の前へ辿り着いていた。音が出ないよう、ゆっくりと扉を押しても、古びた蝶番は軋んだ音を立てた。
だいだい色の夜間灯と、ステンドグラスから差し込む月明かりのおかげで館内は思いの他明るい。人ひとりいない夜の館内を歩くのは始めてで、恐ろしいような探検をしているような、不思議にむず痒いような気持ちを抱かせた。
目当ての棚にたどりつき、本を戻す。さて部屋に帰ろうと体の向きを変えたときに、司書の他にはいないはずの館内から、かすかに物音がすることに気が付いた。
ふたつほど向うの棚の方。ずり、ずり、と足音と共に布のすれる音がする。自分の他に、誰かがこの室内にいることを認めざるを得なかった。
物取りなのだとしたら、目的は一体何なのか。もしも不審者であるのなら、警備室に連絡を取らなければならない。顔を強張らせ案じていると、ふと耳慣れた声が聞こえてきた。
「誰か、そこにいるの」
「……朔太郎先生?」
「その声は、司書さんだよね」
あわてて声のする方に走りよると、そこにいたのは萩原朔太郎その人であった。いつもの紺の着物姿ではなく、寝間着の浴衣を着ている。どうやら自分で着付けたらしく、端々が着崩れていた。
「こんばんは、司書さん、どうしてこんなところに居るの」
「その質問は朔太郎先生にもそのまま返ってしまいますよ?私は本を返しに来たのです」
「確かにそうだね、ええとね、落し物を探しに来たんだ。昼に失くしてしまったみたいなんだけど。さっき思い出したから……」
話す萩原の手には青い万年筆がしっかりと握られていた。話から察するに、件の失せ物はそれだったのだろう。
視線に気が付いたらしく、萩原は自身の手のひらに万年筆をのせると、司書に見せるように手を差し出してやった。
「この間、ヘルンと出掛けたんだ。文具店に行ったり、甘味処に行ったりしたんだけど、ヘルンが後日にお礼だって言って……」
「そういえばこの前のお休みの日に、出かけていらしたんでしたね」
小泉八雲は、つい最近図書館に転生してきた文豪だ。ふたりは不思議に馬が合ったらしく、手紙のやり取りをしたり、食堂で共に過ごしている姿を見かけていた。
どこか難しい所のある萩原に親しい友人の増えたことを、司書はひそかに安堵し嬉しく思っていた。
ふと、萩原が手で口を押さえてくしゃみをした。初夏にしては冷える夜だというのに、萩原が浴衣の他には何も身につけていないことに、そこで改めて気が付いた。
「寒いでしょう。何か羽織るものはお持ちではないのですか?」
「ふと気が付いて部屋を出てきたんだ。これ以外は何も身に着けてないよ」
崩れている浴衣もそうだが、萩原は足にも何も履いていない。しゃがみこんで失せ物を探していたのか、膝の部分の布地はうっすらとすす汚れていた。この様子では、体もすっかり冷え切ってしまっているのだろう。
食堂に連れて行こうかとも考えたが、窓から見えた宴会の様子を思い出し、その考えを却下する。しかし自室まで萩原を送ろうにも、文豪たちの私室が立ち並ぶ居住棟までは、ここからは少し距離がある。そうして考えを巡らせ、司書は萩原に声をかけた。
「朔太郎先生、今日は冷えます。良ければ私の部屋でお茶でも飲んでいかれませんか」
勢いづいたまま、萩原の手を握ってしまう。握った指先は、やはりヒヤリと冷えてしまって冷たかった。
図書室を出て、絨毯の廊下を進む。手は繋がれたまま、司書が萩原を先導する形となっていた。行きの道では心を安堵させてくれた窓の外の喧騒が、今はやけに後ろめたい気持ちを抱かせる。やましい、振り返れない、気が付きたくない。自分の感情に見ないふりをして、必死に窓から目をそらした。
そんな司書の一挙一動を、後ろからジィと繋がれた手ごと見つめる瞳がある事には、終ぞ気がつかなかった。
やけに長く思えた廊下を通り抜け、司書室へとたどり着いた。ドアを開けて部屋に入るなりタオルを持ってきて、萩原の膝の汚れをはらってやる。萩原は少しむずがった他は、されるがままに司書のつむじをぼんやりと見つめていた。
ローテーブル前に置かれたソファに萩原を座らせ、司書は茶の用意をし始めた。キッチンと胸を張って呼ぶには憚られる、簡素な給湯器とシンクが司書室には備え付けてある。そもそもが来客など想定していないために、カップもティーポッドもひどくチグハグになってしまったが、一応の体裁を整えテーブルへと戻った。その間も、萩原は何をするでもなく、じっと宙を見つめて司書を待っていた。
「一応夜ですから、お砂糖はどうしますか。甘めのお茶ではあるのですが」
「そのままで良いよ。ありがとう」
目の前にカップを置いてやると、萩原はちびちびと舐めるように茶を飲みだした。そうしてカップを持ちながら立ったままの司書を見とめると、自身の隣をチラリと見ながら声をかけてきた。
「司書さんは、ソファに座らないの」
「先生、お隣に座られるの嫌じゃあありませんか」
「良いも何も、この部屋は君のものでしょ。許可なんていらないよ」
「ああ、はい……では、失礼しますね……」
そういった意味ではなかったのだが、ここで頑なに断ってしまうのも失礼だろうと、隣にそっと腰かける。どうにも落ち着かずにソワソワとしてしまうが、萩原はまったく意に介していないようで、カップから漏れ出る湯気をじっと見据えていた。逃げるように司書はカップをつかんで茶を飲みこんだが、心ここにあらずの頭と舌ではしっかりと淹れたはずの茶の味はわからなかった。
「司書さんは」
「は、はいっ!?」
そんな様子だったから、ただ話しかけられただけだというのに、ひどく大げさな反応を返してしまった。萩原は目をパチパチと瞬きさせたが、何拍かのあとには元通りに言葉を繋げた。
「司書さんは、夜をどう思う」
「え、あ、夜。夜ですか」
「うん、そう。太陽の落ち切ったころ、月と星の時間。自分はね、夜にはどうしようもなく寂しくなってしまうときがあるけれど。それでも決して、夜が嫌いなわけではないんだよ」
夜になれば、昼に満ちる生の活気は息をひそめ、じっと朝を待つ。だからこそ司書にとって夜は、眠りの時間であり、休息の時間だ。
しかし、自分にとっての夜と、萩原にとっての夜では違った意味を持つらしいことに、司書はようやく気が付いた。
「自分が疎ましいのは夜ではなくて、夜に付随してくる感傷。孤独なんて憂鬱で、寂しくて仕方がないけれど、決して不要なものじゃない。自分の詩は、孤独から生まれてくるものだから。ひとりは嫌だけど、自分は肝心なところでそこから抜け出せやしないんだ」
萩原が飲みかけのカップをテーブルの上に置くのを見て、司書も中身のいくらか減ったカップをそっとテーブルの上に置いた。萩原は、カップのふちをジィと見つめたまま、ソファの上で膝を抱えこんでいる。
だらりと力なく垂らされたままの右手が迷子の子供のようで、司書はそっと萩原の右手を握ってやった。そこではじめて、萩原は司書の首元を見た。
「ひとりぼっちの孤独なんてものは嫌いだよ。一人にしないでほしいと、本当に思うけれど。君が孤独の暗がりに落ちてきてしまうのは、心から嫌だと思うよ」
それきり萩原は黙ってしまうと、視線を下へと彷徨わせてしまった。胸が詰まるように苦しくて、喉をかきむしりたくなるほどに苦い気持ちが司書の体いっぱいに広がった。
結局のところ、司書には萩原の孤独を完全に理解することは出来ない。苦しみを推し量ることは出来たとしても、抱く感情の一かけらまで完璧に理解できるのは萩原その人だけでしかない。それでも、このさびしい月夜のような人をひとりきりにしたくなかった。たとえエゴでも、この人に寄り添っていたい。
司書の、萩原の手を握る力がギュウと強まる。正面を見たままの萩原が、ふいに司書の方にもたれかかった。司書も横を見ることはせずに、前をジッと見つめていた。
「司書さんの手は、あたたかいね。あたたかくて、優しい手だよ」
「そう、でしょうか。先生の手も、あたたかいですよ」
「そうかな」
「そうですよ」
部屋の窓にはかたくカーテンが引かれ、外に広がる夜空からは室内の様子をうかがい知れない。月から隠れて、夜空に浮かんだ箱庭のような部屋の中で、男と女は手を握り合う。箱庭を取り残すかのように、夜はゆっくりと更けていった。