デイジーデイジー答えておくれ


 先日に歯を抜いた。仕事にかまけているうちに進行した虫歯は、奥歯を抜く事態にまでなまえの口内環境を追い詰めている。ああもう本当に、金輪際医者を先延ばしにしたりはしない。天に誓う。

 痛み止めを服用してはいるが、やはり違和感は拭えない。肉がひりつくような感覚がジンジンと歯茎を蝕む。とても辛い。眉根を寄せた思い切りしかめた額を、手袋越しの指先に突かれた。

「おっしょはん、えらい眉しかめて。そんなに歯ァ痛い?」
「おやつにお煎餅を出されたら、オダサク先生の事をすっかり嫌いになっちゃいそうなぐらいには痛いです」
「ま、これに懲りたら歯の不養生は大概にせえってな」

 ケラケラと笑う織田の言葉はもっともで、なまえは反論も出来ない。何もかも織田の方が正しい。医者の不養生とはいうが、この場合は特務司書の不養生だろうか。文学を守るだなんて掲げているひとりとして、こんなにも幼稚な失態は恥ずかしい。

「これが抜いた歯ですかあ、随分とまあ可愛らしいなあ。開けてもええ?」
「まあ良いですけど、ただの面白くもない歯ですよ」

 歯医者にて抜かれた歯は小さなケースに入れられている。今は司書の手の中にあるそれは、執務机の上をころころ転がされている。置場に困って扱いあぐねているというのもある。小さい子供のように空に投げても良いけれど、なんとなく憚られた。

「こんなしっかり形あるモン抜くとか、そら痛いわけや」
「昨日の夕方まではがっちりと生えてましたからね」

 織田は笑いながら、歯をケースから取り出した。親指と人差し指でつまみ上げたなまえの歯を、しげしげと眺めている。珍しくもないだろうと思うが、何か思う所あるのかもしれない。咎めることもなく好きにさせる。

 陽にかざすように掲げられた歯が、照明に光を反射してチカリと輝く。2、3度指の腹でエナメル質を撫で上げると、織田はソレをいきなり口に含んでしまった。

 呆気にとられたなまえは口を開けたままだ。思わず息すら忘れてしまう。そんな動揺を気に留めることもなく。まるで飴玉で転がすかのように、織田はすべて呑み込んでしまったのだ。

「あ、あの、なんで……」
「食べたいほど可愛い、やったっけ」

 やっとのことで絞り出した声は掠れている。何が起こったのかを理解することすら、混乱しきった脳みそが拒んでいる。うっすらと笑みを浮かべた織田はいかにも優しげで、その穏やかさがますます場を混乱させた。

「時々無性にな、おっしょはんが手に乗るほどちいちゃかったらなァて思うわ。でも、痛い思いさせたいわけやないしな」

 ぐるぐると目をまわすなまえの背中を、冷たい汗が伝った。織田はいつもと変わらない様子でなまえに手をのばしてくる。ビクリと跳ねた肩を気にも留めず、指先がそのまま前髪に触れた。

 何かを言おうとしては言葉にならず。だからといって何が出来るわけでもない。口をはくはく開閉させるなまえを、織田はうっそりと見つめる。窓の外で鳴いた烏の声だけが、やけに大きく司書室に響いていた。