いくじなしの背中

 雨上がりの道を通らなければならない時であった。その日の審神者は骨喰とふたり出掛けていて、よそ行きの着物は少しばかり動きづらかったのだ。ぬかるみでは足元が覚束ないだろうと手を差し出された。骨喰の気遣いをありがたく受け取ろうとして、向き合った時にふと気が付いた。

「主、俺の手につかまってくれ」
「……うん」

 こちらを刺してくるかのような視線に籠った、強い感情を見止めた。つまびらかに言われなくたって分かる。これは恋い慕う女を見る男の瞳だ。彼のふたつの紫の中で揺れる激情は、ひしひしと痛いばかりであった。

 そんな甘い感情を向けられていると気が付いたときに、審神者の心によぎったのはたった一言。しまったなあという、ただそれだけだった。

「というか今まで気が付いてなかった主がすごいですよね、俺ときたらそりゃもうヤキモキしてたんですから」
「え、ええー……?」
「いち兄はアレでいてそういうの疎いし、気づいてませんから」
「プライバシーが全くない!」
「そこは大丈夫、気が付けたのも身内だけで他の刀たちはあんまり知らないと思います」

 こちらとしては非常に深刻な相談のつもりであったのに。鯰尾は事も無げに言い放つ。八つ時に話し始めたこちらも悪いのだが、煎餅を食べる手をまったく緩めないあたり、茶請け話か何と勘違いしているのではないだろうか。

 しかし全然知らないではなく、あんまり知らないときた。ということは、骨喰の恋に気が付いている刀はそれなりに多いのだろう。がっくりと落ちそうな肩を何とか元の位置に戻した。

 しかし鯰尾のこんな時にも変わらない明るさは少し元気が出る。やたらと空気が重苦しくなるよりかは幾分もマシだ。強張っていた心もすっかりほどけてしまった。審神者はさっそく、今日の近侍殿に習って煎餅を齧りながら事の次第を話すことにした。

「大体ねえ主、骨喰の何が悪いって言うんです?」
「ぐいぐい来るねえ」
「ちょっと寡黙だけどそういうのミステリアスって言うんでしょう?身内贔屓を抜きにしたって、兄弟は良い男じゃないですか」

 鯰尾の骨喰賛辞はなおも続いていく。索敵も得意、弓も投石もお手の物、二刀開眼も出来て、夜戦もこなせる。見目だってそんじょそこらの男には負けない。しかも刀剣男士なので力も強い。

 その基準でいくなら本丸内の脇差ほぼすべてが当てはまってしまうが、鯰尾はそれでいいのだろうか。ぼんやりとそんなことを思いはしたが、蛇足にしかならないだろうと言葉をしまい込む。それに骨喰が魅力的な男性だなんてことは、審神者もよく知るところであった。だからこそ困ってしまうのだ。

「どんなに好条件でも私は釣り合わない、問題は私なんだよ」
「そりゃまた、なんでです?」

 骨喰は良い男だ。刀剣としての強さは勿論、彼は寡黙で淡泊ながらも優しい。慣れないうちはじゃれ合いを咎められることもあったが、今では彼から審神者に触れてくることも少なくはない。ふとした交流の中にに見せる微笑みが、どこまでも穏やかなことを知っている。

 たくさんいる兄弟たちを、兄として気にかけていることも。兄弟たちの様子をよく見ていて、気づいたことがあればすぐに手を貸す面倒見の良さも知っている。そう、骨喰自身に全くもって非は無いのだ。

「だってさあ、私じゃあ骨喰にいくら貰ったって返しきれない」
「ちょっとばかり多めに貰った方が愛されてるって意見も、世の中にはあるみたいですよ」
「貰えるものを享受するだけなんて、とんだ傲慢だよ」
「真面目だなあ、主は!」

 それを聞いた鯰尾は、一瞬考え込んだあとにクスクスと笑い始めた。なんだか少しあきれるようにこちらを見ている。駄々をこねる幼い少女を見て微笑むかのような、なんとも言えない顔だ。こういう年長者としての慈愛を見せられる度に、刀剣男士たちは自分よりもずっと年嵩の神様なんだと思い出される。

「でも俺は主のそういう所好きですよ?たぶん、骨喰も」
「私は自分のこういうところ、好きじゃないけどなあ」
「自分から見た欠点は、他者から見た美点ですよ」
「そうなのかなあ」

 ぱりぱり、ぱりぱり。部屋には煎餅をかじる音が響く。黙りこんで考え込んでしまった審神者を、鯰尾は声も掛けずにジッと見守る。

 自分に自信がない、不器用な人なのだ。骨喰のこと、自身の事が審神者の頭には渦巻いているのだろう。そしてきっと骨喰は、彼女のそんな不器用な真面目さに惚れ込んでいて。そのうえで寄り添うことを望んでいる。

 ここで慰めの言葉をかけるのは簡単だが、それはきっと自分の役目ではない。王子様になるにはぴったりであろう兄弟の白銀を思い浮かべて、ほんの少しだけ鯰尾の頬が緩んだ。