やがて死すら飲み込む病

これの前日譚

 生まれながらにして、ひどく腕が立った。傭兵団をまとめ上げる父親のもと、ベレトは幼い頃から戦場に身をおいて育った。

 死とは隣り合わせに佇むもので、生とはこの手で掴みとるもの。幼い手に握った剣の重さは身に沈むものであったが、当たり前のようにベレトの傍らにあった。

 依頼人となる集落や村々で、ごく一般的な生活を営む住人を目にしたこともある。父親がいて、母親がいて、剣など握らずに明日を迎える子供。もの珍しげに村人を見つめる息子に思うところがあったのか、申し訳なさそうな顔をした父に話しかけられたのを覚えている。

「父親ひとりで寂しい思いをさせて、すまないな」
「俺にはジェラルトがいる、寂しいことなんて何もない」

 その言葉を聞いた父は、嬉しさとさびしさの入り交じるなんとも言えない顔で笑っていた。ベレトの家族は父であるジェラルトに、傭兵団の仲間たち。それで不都合や不満を感じることなど、本当に無かったのだ。

 けれど時折、自分にもかつて居たはずの母を思うことがあった。豪放磊落を絵に書いたような父の伴侶、邂逅を果たすことなかった垂乳根の母。

 父はベレトに向けて母の話をすることはなかった。けれど依頼人や行き違った家族を見る視線が、ひどく柔らかな時があるのに気がついていた。思うのは在りし日の情なのか、あるいは甘き逢瀬の残り香か。

 自分もいつか、そこまで誰かを思う日が来るのだろうか。ふたりの間に遺された息子を、片親で育て上げようと思うほどに誰かを恋しく思う。そんな日が、いつか。

 とはいえ、ベレトが身を置くのは常に戦場で。センチメンタルな感情に浸っている暇などあるはずもない。目まぐるしい日々の中でそんな思考はいつしかかき消えてしまったし、数奇な縁で士官学校に招聘を受けてからは尚の事忙しさに塗れて思い出す時間はなかった。

「黒鷲の学級について知りたいのですか?では級長に聞かれると良いでしょう」
「おや、金鹿にもご興味が?級長はあちらの角にいらっしゃいますよ」
「ああ、ありがとう」

 教師として修道院に籍を置くことになったのも束の間、ベレトは教室のある建物周辺を探索していた。級長三人とはかろうじて面識があるが、他の生徒や学級ごとの特色については知る由もない。レアに受けた助言通り、行き違う生徒たちと会話をして雰囲気を掴んでいたのだ。

 出身国ごとにクラスを割り振られているともあって、それぞれの学級は驚くほどに組ごとの特徴があった。これはどのクラスを鍛え導くことになっても面白いだろうな。明日の教え子を決める重要な時間を、ベレトは楽しみながら過ごしていた。

 そういえば未だ青獅子の生徒とは、あまり話が出来ていない。級長であるディミトリと会えれば早いのだろうが、慣れぬ修道院では人探しも難しい。中庭で視線を彷徨わせる青年が珍しかったのだろうか、ふと後ろから声がかかった。

「あの、何かお困りですか?助けが必要でしょうか」

 振り向いた瞬間に視界に映ったものに、ベレトは目を見開くような心地になった。立っているのは制服を身に着けた一人の少女で、髪には青いリボンが飾られている。士官学校の一員として何の変哲もない少女だ。それでもベレトは、彼女から目が離せなかった。

「あ、私たら名乗りもせずに……なまえと言います」
「俺はベレトと言う、なまえはここの生徒か?」
「はい、私は青獅子の学級で学んでいるんですよ」

 なまえと名乗った少女は、ベレトを転入生と勘違いしたのか気さくに話を続けた。青獅子のクラスメイトの様子だとか、食堂のご飯が美味しい話だとか、士官学校で得られる学びの話だとか。

 何て事のない日常的な世間話だ。けれど何故か、なまえが紡ぐ言葉は宝石のような輝きでベレトの耳に届いた。なまえが身振り手振りを駆使して笑いかけるたびに、花がほころぶような心地になった。

 一瞬にも永遠にも思えるような会話の時間は気がつけば終わっていて、頭を下げてどこかに走り去るなまえの後ろ姿が見えた。立ち尽くすベレトに向かって、横からまた声がかけられた。

「ベレト……先生?一体どうかされましたか」
「ああ君はたしか、ディミトリ?」
「覚えていて下さって光栄です」

 呆けたように立つベレトを心配したのか、そこにはディミトリが居た。級長三人の中では彼だけ話ができていなかったので、良いタイミングに恵まれた。

 ベレトの視線の先になまえがいるのを見とめたのか、ディミトリは何やら頷いていた。ただベレトが呆けていただけではないと思ったらしい。そして、改めて自分と向き直る様子に何らおかしい所はないと判断したのだろう。ディミトリは和やかに会話を続けだした。

「先生はなまえと知り合いだったのですね」
「いやそういう訳では……彼女は青獅子の生徒だったか」
「ええ、真面目で明るい級友です」

 ディミトリは紹介も兼ねて、なまえのことを話してくれた。平民ながら紋章を持つこと、その生まれを気負うことなく勉学に励む前向きな少女。

 ベレトはディミトリの言葉ひとつひとつを噛みしめるように聞いていた。本当はもっと尋ねたいことがある。彼女はどんな性格なのか、何が好きなのか、何を厭うのか、どんな事を考えているのか。

 けれどそんな事を聞いてはディミトリを戸惑わせるだけだろう。だから誤魔化すように、青獅子の学級に属する生徒ひとりひとりについて尋ねていく。どこか誇らしげな顔で、ディミトリは共に学ぶ友人を紹介してくれた。下心を隠す己の浅ましさを恥じるばかりだが、詮無いことと胸に秘めた。

 長々と立ち話に付き合ってくれた例を告げ、ベレトは朝方通された部屋に戻った。どの学級の担任となるか、決断したことを告げるためだ。

 翌日に案内された教室で、生徒たちに挨拶をする。あっという間に周りを取り囲む学生たちは、年若き教師を歓迎するように言葉をかけてくれた。

 輪から少し外れたところには、少し気まずそうな顔をしたなまえが立っている。生徒とばかり思っていた青年が教師として現れたことで、昨日の言葉が無礼ではなかったかと気を揉んでいるだとか、大方そんなところだろう。ベレトがジッとなまえを見つめているので、周囲の生徒も縮こまるなまえに気がついたようだ。

「ほらなまえ、先生に挨拶しなきゃ!」
「あ、アネット、でも私、昨日は先生に失礼を……」
「俺は若いから生徒だと思ったんだろう、気にしていない」
「気にしてないんですって、良かったわねえ」
「メルセデス〜……」

 アネットとメルセデスに手をとられるように、ベレトの眼前までなまえが引きずり出される。緊張しきりで前に出されたなまえは、これまた固い動きで頭を下げた。ああ、可愛らしいなとその一挙一動を見つめる。

 その瞬間、ベレトは唐突に理解した。一目惚れ。この少女が愛らしく思えてならないのも、悩んでいた担任の話を即決したのも、今このときも目が離せないのも。全ては己の持つ愛ゆえ。そう理解すればなんとも容易いことだった。

「おぬし、こんな時でもその鉄面皮は変わらないんじゃのう……もっとこう分かりやすく浮かれでもすれば良いじゃろうに」
「そうかな?」
「まあ他人の恋路に口を出す野暮な趣味など無い、せいぜい花の季節を謳歌することじゃな」

 呆れたように話しかけてくる女神に脳内で返事をして、生徒達に向き直った。視界の端にこっそりとなまえを入れて、また見つめる。細い指先や、流れるような髪、それら全てが光り輝いて見えた。

 ああ、この子が欲しい。

 この子を手に入れるために、何だってしよう。頼れる大人の顔をして近づき、彼女が異変に気がついたときには何処にも逃げられないように。浮き立つ心とは裏腹に、彼の表情はピクリとも動かない。だからベレトが人知れず生み出した執着と初恋は、それこそ女神のみぞ知る話なのであった。