#3 諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
市街地にあるイタリアレストラン。外には閉店の看板が掛けられて、表の通りは深夜ゆえに人通りも無い。けれどもし通りがかる人があれば、扉の隙間から漏れ出る光に人の気配を感じることだろう。
閉店後のイタリアレストラン、もっと言えば閉店後の虎次郎の店で私は薫と一緒にクダを巻いていた。なぜなら薫は先日行われたビーフの勝者で、その掛け金に「貸した金の返却と利子としてのディナー」を求めていたから。そこに私がいるというのは、まあ妹という生き物のちゃっかりした生態ゆえだ。
「おい虎次郎、この前白の良いやつ仕入れてただろう、アレも持ってこい」
「ねえ虎次郎、やっぱ足りないから持ってきたこっちの泡盛開けるね」
「お前らよくもそこまで人の店で好き勝手できるよな、遠慮とかねえの?」
顔を赤らめた薫が勢いよくグラスの中身を飲み干し、私は持参した泡盛の蓋を開ける。目の前には食べさしの美味しそうな、事実味の良い料理たち。これは酒もどんどん進もうというものだ。テーブルの上には虎次郎が用意したワイン数本の空き瓶、私が持ち込んだ酒も転がっている。今夜はまさしく無礼講、可愛い子供達には見せられない駄目な大人たちの夜遊びだった。
「遠慮だと?勝者は俺だからな、勝利の美酒に酔いしれ夜を明かすことの何が悪いのか」
「まあまあ、まあまあ、虎次郎さんも一杯お飲みになって」
「しかも兄妹そろって絡み酒なんだもんな……」
完全に酔いが回っているらしい薫は、また新しいワインの瓶を見せつけるように開けだした。あきれ顔の虎次郎のグラスが空だったので、私も遠慮なくそこに酒を注いでいく。桜屋敷の血は絡み酒気質なので、これからも交流が続く以上虎次郎には慣れてもらうほかない。
「これ美味しいねえ、ドレッシング檸檬からかぼすに変えたよね?」
「それは試作品、雅はかぼす好きだろ」
「お店に出すにはちょっと酸味強いねえ、私はすごい好きだけど」
奥にあったサラダを小皿にとりわけ、咀嚼していく。すきっ腹に酒だけ詰め込んではえらい目に合うと、過去の経験から心得ている。明日は休日とはいえ、トイレと親友になるのは御免被りたいものだ。
もぐもぐと咀嚼しながら、瞼を擦る。今日は午前中にいくつか仕事の打ち合わせがあった。慣れない早起きも今夜のディナーがあると思えば耐えられたが、流石に限界が近いらしい。指先で瞼を押し続けていると、ふいにその手を虎次郎に握られた。
「あんまり擦ると跡付くんじゃねえの」
「いやでもご飯食べたい……お酒も飲みたい……」
「そしたらちょっと仮眠取って来いよ、雅の分残しといてやるから」
呆れたように笑われて、店の一角を指される。指の先には、最近お試しにと導入されたばかりのソファ席があった。お客さんから要望があって仕入れたのだと聞いていたが、仮眠ベッド替わりなんて使い方をしても良いのだろうか。けれど酒の入った頭では、難しい事を考えることもままならない。座っていた椅子から立ち上がり、フラフラとソファに近づいていった。
「薫が食べないように絶対残しといてよ、約束してよ」
「分かった分かった、約束してやるから」
「雅、お前俺がどれだけ意地汚いと思っているんだ」
「Hi カーラ、30分後に起こして」
「OK, master's sister 30分後に起床アラームをセットします」
コンセントに繋がれた桃色の燐光を眺めながら、やんやと飛んできた言葉を背にソファに横たわる。流石に身体全部は収まらなくて足がはみ出たけれど、横になった瞬間睡魔が波のように襲ってきた。疲れてたんだなあ。ゆらゆらと景色が揺れる中で、何かを話している兄と友人の声がする。数分もしないうちに、私の意識はそのまま眠りの底へと旅立っていった。
スウスウと雅の寝息が聞こえてくるのを確かめて、薫は空いたグラスにワインを注いでいく。手酌をたしなめる者などこの場には存在しない。先ほどまで妹が座っていた席に、虎次郎がゆっくりと座る。景気づけとばかりにひと口含んで置かれたグラスが、テーブルの上で音を立てた。
「それで、いつにするつもりだ?先延ばしにするのももう限界だぞ」
「主語を言えよ、酔っぱらいはこれだから」
「なら逃げられないように主語を付け足そう、雅に手を出せないぐらいならスッパリ諦めたらどうだ」
隣で酒を飲んでいた男が、勢いよく噎せ返った。常ならば汚らしいと𠮟りつけているところだが、生憎と今夜の薫はアルコールが多量に入っているおかげで気分が良い。それに、いつもヘラヘラと取り繕っている虎次郎が、素を見せたのも良い肴だ。酒を注ぎ終わり、中身の空いた瓶を適当な場所へと寄せる。人の弱みを突きながら飲む酒は甘美なものだ。
ああだとか、ううだとか。言葉にならないような喃語じみた呻きが幾つか聞こえてきて。グラスもすっかり飲み干そうという時になって、ようやく虎次郎は口を開いた。
「まあ、情けない話なんだよな」
「お前から度胸を取れば、その無駄に盛り上がった筋肉しか残らなかろうよ」
「うるせ、俺はさ、薫も大切で雅も大切で……目の前から消えたらって、考えるのも嫌なぐらいにはお前らが好きなんだ」
それでなくとも自分たちには色々ありすぎた。輝かしかった青春の記憶には、苦々しい友との別離も纏わりついている。先だっての諍いを越えた今では、それなりに断絶した交流も復活してはいるのだけれど。
「そんで、プラスで初恋も付いてきてるだろ?もう臆病なぐらい慎重にだってなるさ」
「友としては理解してやらなくもないがな、兄としては妹をお前のエゴに付き合わせる謂われもない」
「はは、その通りだ」
そうやって曖昧に笑って見せるが、よく言えたものだ。聞こえる言葉だけは優しげだが、その実潜んでいる本音は恐ろしいほどに執着が煮固まっている。要はこの男は、確証が欲しいのだ。桜屋敷雅という人間が己から離れられなくなるような、自分以外を見ることはないという鎖じみた欲。
音をたてないように席を立った虎次郎が、ソファのほうへと近づいていく。兄たちの会話など知る由もない雅は、未だ眠りの中だ。少し身じろいだ肩に、男物のシャツがブランケット代わりに掛けられた。わざわざカウンターの奥から取り出してきたらしい。
「まったく、何でこんな男が良いんだか」
誰に聞かせるでもなく、薫はポツリと呟く。モラトリアムの延長戦も、そろそろ時間切れだ。男だろうと女だろうと、この小ずるい男よりマシな人間は星の数ほど居そうなものだが。
散々に逃げまわって諦めさせもせず、本音も隠しがちな男だが。南城虎次郎は情深い男だ。精々最良の結果であればいい。誰が持ち込んだか分からないウイスキーを注げば、グラスの中で氷がカランと音を立てた。