before words 2
「怪我してる」
差し出されたハンカチと冷静な声に振り返る。目の前に立っていたのは黒髪の女。歳は俺より少し上だろうか、返り血で頬を染めた俺に、親切心からか声をかけてくるなんて。路地裏で血まみれの男なんて、普通の女なら怖がって近づかないだろうに、どうやらこの女は少し変わっているらしい。
「返り血だ」
「え?」
「俺の血じゃない」
ぐいと腕で乾いた血を擦る。確かに少しは傷もあったが、すぐに再生してしまうから、その殆どはすでに塞がりかけていた。
女はそう、とだけ呟いてハンカチを仕舞う。そこで初めて女がガンホルダーを身につけている事に気がついた。
「同業者?」
「そうみたいだね」
「悪いな、俺が先にやっちまった」
「知ってる」
そう言うと女は俺に近づいてきた。一瞬身構えるが、すぐに女は腰を下ろす。俺の足元に転がる、腹を裂かれた悪魔にそっと手を触れた。女の行動を訝しげに見守っていると、女がぽつりと呟いた。
「依頼したのわたしなの」
「あんたが?」
早速報酬でも渡しに来てくれたのか?尋ねると女は黙って立ち上がり、懐から小さな麻袋を取り出した。ぽいと投げ渡された袋をキャッチすると、小さいわりに重みがあった。思わずひゅっと口笛を吹く。
「確かに」
今度は返事が返ってこなかった。女は足元の屍を見つめている。俺が今仕方片付けたばかりの黒い炎を纏った悪魔だ。手応えがなかったわけではないが、もともと手負いだったらしい。そこまで苦戦することもなく、あっさりと倒せて拍子抜けだと思っていたが、女の様子を見るに何かワケありのようだ。
「あんた、暇か?」
「え?」
だから、気まぐれだった。あっけなく倒してしまったことで不完全燃焼だったのもあるし、このぼんやりした輪郭のない女に僅かに興味が湧いた。今手に入れたばかりで潤った懐を、行きつけのバーで安酒に使うのも悪くないと思ったのだ。
一杯付き合ってくれよと渡されたばかりの袋を見せると、もう一度足元を一瞥してから、女は控えめに笑った。こんな風に笑う女は、俺の周りにはいない。珍しいものを見るように女を凝視すると、女がこっちに向き直る。
「その格好で入れるバーがあるの?」
血塗れ埃塗れの姿だが、俺はにっと口角を上げた。
「生憎、俺の行きつけにはもってこいの格好だ」
「…そう、楽しみ」
女はそう言ってまた微笑んだ。
相変わらず汚く薄暗いバーで、ジントニックを2杯頼む。女は日向と名乗った。黒い髪、黒い瞳、言葉は滑らかだが東洋の出身らしい。ぐいと一息に煽ると、ふっと息をつく。
「さっきの悪魔、あんたの獲物だったんじゃないのか?」
デビルハンターを名乗っているならあれくらいの小物、簡単にやれるだろうに。特に彼女の背に収まっているガンなら一発でも十分だろう。早くもグラスを空けた日向は、既に二杯目も飲み干そうとしている。
「ちょっとやりにくくて」
「やりにくい?」
「わたしの相棒だったの」
さっきの悪魔。
くいと煽ったグラスの縁をなぞりながら日向がぼんやりと呟く。その手には赤い魔印が浮かんでいた。
「使い魔か」
「そう。でも最近返事をしてくれなくて」
様子を見ようと思って呼び出したら逃げ出してしまったから、探して治すつもりだったんだけど。でもああなってしまったらもうどうしようもないよね。情けない話だけど、わたし自分じゃトドメさせる自信がなかったんだ。だから、あなたに頼んだの。
「なんで変わっちまったんだ?」
「さあ、わからないけど…。昔から続く血の契約だから、世代が代わるにつれて契約で抑える力も弱くなってたのかな」
「血ね…」
無意識に俺は胸元にそっと手を当てた。自分の中に流れる悪魔の血。世代が代われば血も混ざり、元の力は薄まっていくだろう。それと同じことだろうか。
こくりと三杯目まで飲み干した日向は、頬を僅かに赤くして笑った。
「あなたがやってくれたおかげで、あの子も苦しまずに消滅できたと思う。ありがとう」
話まで聞いてくれてありがとね、そう言って席を立った日向は三杯にしては多すぎる金をカウンターに置くとすたすたと歩き出した。俺は咄嗟にその手を握る。と、日向が驚いたように振り返る。俺自身何故引き止めたのかわからず、だが不思議と手を離す気にはなれなくて、立ち尽くしたままの日向に合わせて立ち上がる。
「あんた、一人なのか」
「え…そう、だね。今さっきから」
「俺のところに来る気は?」
また日向が驚いた顔をする。俺だってビックリだ、一体何を言っている?自分の言っていることに困惑しながら、どうしてかこの女をここで手放す気にはなれなかった。
「人手がいるんだ」
「…人の助けが必要なほど弱くはないようだけど」
「それは知ってる」
俺の言葉に日向が破顔する。勿論涙なんか浮かんでいない、でもその瞳にはたしかに悲しみの色が色濃く映っていて。彼女と相棒の使い魔がどれほどの関係だったのかは知らないが、彼女の様子を見るに大きな存在だったのだろう。相棒、片割れを失くした喪失感は、俺にも覚えがあるものだった。
「今ならピザにストサンもつける」
「ストサン?」
「ストロベリーサンデー」
「…好きなの?」
「最高の食べ物だ」
思い浮かべるだけで幸せな気分になると、首を縦に振らない日向に、俺はなおも続けた。
「あとは、そうだな。俺は怪我なんか滅多にしねぇけど、もしヘマしたら治してくれ」
「…わたし、医者でもない」
「…ハンカチ」
「?」
「ハンカチ貸してくれれば十分だ」
恐らく彼女は使い魔を愛していたのだろう、悪魔を人間が愛するなんて笑い話だ、だけど俺にとっては切実な話でもある。父と母のように。そして、その存在を失うことも、他人事ではない。
日向は、さっきの薄暗い路地裏で、死んだ悪魔を悲しげに、愛おしげに見つめていた。今思えば、悪魔に対してそんな思いを向ける女の、俺はそこに惹かれたんだと思う。
困ったように握られた手を見つめる日向に痺れを切らして、一度手を離す。すぐ引っ込んだ手を若干恨めしく思いながら、カウンターに置かれていたペンとメモをひったくり、さらさらと文字を並べる。振り返ったとき女はいなくなっているかもしれないと少し思ったが、ちゃんとそこにいた。もう一度手を引き、メモを渡す。
「店の場所だ。その気になったら訪ねてくれ」
番号は知ってるだろ、電話でもいい。その気になれば。くしゃりと潰れたメモと俺の顔を交互に見比べて、日向はぽかんとした顔をしている。わかったか?と手を強く握り締めれば反射で日向が頷く。よし、頷いたな、絶対来いよと続けると、日向が噴き出した。なんだよ、おい、らしくないのは自分でわかっている、だが笑われる謂れはないぞと噛み付こうとするが。その目に薄く涙の膜が張っているのに気づいて、言葉に詰まる。
「ダンテ」
初めて名前を呼ばれて日向を見る。
「ありがとう、またね」
確かにメモを手にして店を出て行く日向。振り返ることなくドアを開けて、錆びたベルが鳴った。追いかけることもせずその姿を見送り、掌に残った日向の手の温かさを感じながら、ぐっと拳を握る。