油断

くいと腰を引かれて男と体が密着。ぽかんと口を開けた日向の、まるで無防備な唇に男のそれが押し付けられた。途端、どかんと爆発したような音が辺りに響き渡る。

驚いたようにこちらを見た日向が、ダンテと呟いたのがわかった。
一瞬の魔人化、瞬きする間に詰まった距離に男が間抜けな声をあげた。乱暴に日向をひったくるとぐいと顎を持ち上げる。日向が何かいうよりも早く、案の定開かれたままの唇に噛み付いた。

「んぐっ」

怒涛の出来事に状況も息も飲み込めていない日向が、我に帰ったのか苦しそうにもがいている。どんと胸元を叩かれるが効果はない。男は腰を抜かしたらしく、地面に尻餅をついてただただ俺たちを凝視している。見せつけるというよりは消毒、そして仕置のつもりで深く深く貪れば、やがて抵抗する力が緩んできて、終いには弱々しくシャツに縋り付く。細めた目で日向を見下ろす、酸欠なのか目が虚ろだ。一度口を離すと、はあっと大きく呼吸し、それを確認してからまた舌を差し込んでやった。じゅる、と下品な音を立てて舌を吸う。

「あ、ぁ…ふ」

たっぷり数分の濃厚なキスの後、解放された日向はぐたりと俺の腕に凭れる。荒い息の日向を抱えたまま、ちらりと男を見やる。周りのギャラリーと同じように顔を赤くて信じられないと言わんばかりの顔の男に、フンと鼻を鳴らす。

「人のモンに手を出すとは、いい趣味とは言えねぇな」
「なっ…お前…っ!」

顔を真っ赤にしてなんとか立ち上がった男は、ぐちゃぐちゃと何事か罵ったが既に意識は日向に向いていた。
ひょいと体を抱き上げ踵を返す。

「お、おい!待てよ!」

だがなおも食い下がってくる男。しつこい男は嫌われると知らないのか。それでなくても手を出されて相当腹が立っているというのに。肩を竦め、一瞬だけ殺意の篭った一瞥をくれてやる。と、男はひっと情けない悲鳴をあげて二度目の尻餅をつく。今度こそ振り返らず歩き出すと、好奇の目で見ていたギャラリーがさっと道を開けた。まるでモーゼだ。

店の裏手に回れば、乱雑とした路地裏に積まれた空のビール箱に日向を座らせる。運ばれる間に意識が戻ってきたらしく、怒っているような、気まずいような面持ちだ。俯いた日向の顔を覗き込むと、ぱっと逸らされた。やれやれ、困ったお嬢さんだ。

「言った通りだったろ」

痛いところを突いてやる。ぴくりと肩が跳ねた。静かにしているが内心歯噛みしているに違いない。

「俺が来なかったら食われてたぞ」
「…」
「わかってるのか?なあ」
「……ダンテだって女の人と楽しそうにしてた」

ぽつりと呟かれた言葉に耳を疑う。俺がなんだって?聞き返す前に離れてと胸を押されて、日向が立ち上がる。

「おい」
「シャツ、口紅ついてる」

振り返らず告げられる。ぱっと見下ろすと、黒いシャツには目立たないが確かに紅色。さっきのバーで絡みついてきた女たちを思い出す。一体どいつの仕業だ。

「されたくてされたわけじゃない」
「わたしだってそうだよ」
「お前は口にされてただろ」

場所なんか関係ないよ。
ぽつりと落とされた声はいつもより弱々しく、目元を擦る仕草でようやく日向の声が濡れているのに気がついた。慌てて腕を取り振り向かせると、潤んだ、だが強い怒りを孕んだ瞳と視線がぶつかる。日向がこんな目をするなんて。

「ダンテはよくて、わたしはだめなの」
「お前は無防備すぎる、何かあったら」
「あったら何。放っといたのは誰?」
「だからついて来るなって言ったんだ」
「見られたら困るから?」
「そういうことを言ってるんじゃない」

思わずため息をつく。酔いが回っているのか、いつもよりもストレートに感情を伝える日向が新鮮でもあり、面倒臭くもあった。こんな風におおっぴらに感情を表に出した彼女を見るのは初めてかもしれない。それが甘えならば可愛いものだが、こうも頑なに意固地になられると、こちらとしてもいい気分ではいられないのは当然だ。

「お店戻って。1人で帰れる」
「あんな簡単にキスされてたくせに?」
「気を抜いてただけ…ほっといてよ」
「ほっとくなっていったのは日向だろ」
「もういいよ」
「どうしろっていうんだ?どうすれば満足?」
「しらない、も…疲れた」

ぐすりと洟をすすって、目を擦る。また俯いた日向に肩を竦める。いつもなら悪かった、お前だけだと甘い言葉の一つもかけてやって、相手の機嫌をとるところだ。だが、己の忠告通りまんまとキスされ、あまつさえ自分の非を認めない日向に若干の苛つきを覚えていたのも事実。そっちがその気なら、こっちだっていつまでも優しい顔はしていない。そう教えるつもりで掴んだままだった腕を放す。

「…わかったよ。それなら勝手にしろ」

日向が俺を見上げたが、その視線を振り払うように目をそらす。お互いに少し離れて頭を冷やした方がいいだろう。踵を返して振り返ることなく店に戻る。薄暗い店内の廊下で、ふうと息をつけば、
さっきの女達がきゃあと声をあげた。

「帰ってきてよかったの?」
「可哀想」
「意外と冷たいのね」

口々に言いたいことを言う。まあ、言わせておけばいい。ふうと溜息をつきながらもう一度席に座ろうとした時、女の口から飛び出した一言に体が固まった。

「彼女、バッグも置いて行っちゃったけど大丈夫?」

はっと女の手にあるバッグを見つめる。日向が出掛けるとき愛用しているもの。見た目は華奢なデザインだが、中にはいつも愛銃を忍ばせている。まさか、と引っ手繰るように手にして中を改めると、案の定彼女の得物が静かに眠っていた。
舌打ちを隠すこともせず席を立つと、女達があらっと見上げる。やっぱり迎えにいくのね、当たり前よ、待ってるはずだわ。

ざっと避けきれなかった刃が日向の足を掠めた。バランスを崩して膝をついた彼女に、容赦なく追撃がかかる。醜悪な鎌が日向目掛けて振り下ろされた、瞬間。


ぱん、と破裂音。

「じゃあもっとちゃんと傍にいてよ!」

絶句。言葉をなくして日向を見つめる。

「傍、にって」
「いつもどっかふらふらいなくなって」
「日向?」
「なんでわたしばっかり」
「おい」
「ダンテのこと、いちばんなのは、わたしなのに…」

ぼたぼたと涙を零しながら、思いを吐き出す。相当酔っているらしい。落ち着けと肩に手を伸ばしたとき、全く予想外にその手を掴まれた。驚く間にぐいと首元を引き寄せられ、日向と酒の香りが強くなる。一瞬だけ、瞬きするより短い間。触れ合った唇に呆然としていると、日向が力なくへたり込んだ。

「一番、好きなのに…」

俯いたまま泣き出した彼女に俺は何も言えなくなる。無言のまま膝を折ると、今度は伸ばした手を叩かれた。

「日向」
「もう、優しくしないで」

辛いだけだと続く言葉。嗚咽が響き、日向は手の甲で涙を拭った。

「お前が嫌ならもういかねぇよ」
「嘘だ…」
「嘘じゃねぇよ、恋人を泣かせる趣味はない」
「それこそ、嘘だ」
「だから、悪かったって。…俺はお前に甘えてたんだな」

何も言わないことが、受け入れてもらっていると思い込んでいた。

「なあ、お前が嫌なことはもうしない。誓うよ。俺には日向だけだ」
「ダンテ」
「だから、傍にいてくれ」

祈る気持ちで手にキスをする。そっと顔を上げると、未だ疑い半分の眼差しを向ける日向に彼女らしいと苦笑い。

「どうすれば信じてくれる?」


「キスだけでこんなになっちまうんだ、もう俺のもんってことでいいだろ」
「…ばぁか」

諦めるように、くたりと凭れてきた日向の体をもう一度抱きとめる。

「香水くさい」
「悪かったな」
「ダンテ…」

ぐすりと日向が洟をすする。見上げた瞳は水の膜を張ったまま。吸い寄せられるように、目元、それからもう一度唇にキスを落とす。

ALICE+