あなたがいれば
彼女の手からグラスが滑り落ちた。
「っ」
間一髪グラスを掴むと、項垂れていた日向ごと床に倒れる。
「日向、大丈夫で」
すか、と言いかけた言葉は彼女の唇に飲み込まれた。目の前にはかつてない近さ、閉じられた日向の瞼。
慌てて引き離すと、ぽとりと雫が散った。
「日向…っなにを、」
ぎくりと動きが止まる。彼女の瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
「ごめん…なさい」
「日向…?」
すきなの、と、涙と一緒に溢れるのは愛の言葉。それは決して僕に向けられたものではない。けれど、目の前でか細く、泣きながら謝り続ける彼女の姿に、どうしようもなく僕のプログラムが、心が揺さぶられる。
伝わらない思いと、それでも思い続ける彼女の姿は誰よりも近くで見てきた。
弱々しく掴まれたシャツの袖はくしゃりと皺になっていた。
「めいわくって、わかってる」
「…」
「で、も、すき…なの」
今にも崩折れそうで、謝罪も涙も止まることはない。拭っても吐き出しても次から次に溢れてくる。なんと声を掛ければいいのか、ソーシャルモジュールをフル稼働させても適切な言葉が見つからない。
そうして、彼女が幾度目かわからない謝罪を口にしたとき、気付いた時には勝手に口から言葉が滑り落ちていた。
「…迷惑なんかじゃない」
ぽとりと落とされた言葉に、日向がゆっくりと顔を上げる。涙に濡れた頬を撫でると、僕を見つめた。そのまま、開かれた唇にそっと自分のそれを押し付ける。目線は外さないまま、そっと彼女の体を押し倒す。
「迷惑なんかじゃないさ」
「…っ」
みるみるうちに新しい涙が頬を伝う。その目元にキスを落としながら、合間に彼女の名を呼ぶ。震える手が腕に添えられた。
自分がこれから彼女にしようとしていることが取り返しのつかない過ちだという自覚は、確実にある。僕にとっても彼女にとっても、そして大切な相棒に対しても決して良い結果を齎らしはしないだろう。けれど、それでも、
「わた、し…」
「わかってる。だから、どうか」
泣かないで。
祈るような気持ちでキスを落とした時、確かに僕らは世界に2人きりだった。
「ハンク…」
だから、揺れる世界の中で、彼女が零した言葉には、気がつかないふりをした。