確執

サイバーライフへの報告を終え、目を開ける。辺りを見回すが、日向の姿は見えない。デスクの端末はまだ電源が入っている。

「すみません、日向を見かけませんでしたか」
「日向ならアンダーソン警部補と一緒にいたぞ」

ハンクと?彼のデスクは既に空っぽだ。帰宅した後だろう。彼女は恐らくまだ署内にいるはずだ。休憩室、会議室と見て回り、残すは、トイレ。男女のマークが描かれた戸を開けると、目当ての人物が鏡の前に立っていた。その手には黒いカード。スキャンするより早くこちらに気付いた日向が慌ててそのカードをハンドバッグに突っ込む。

「な、なに?」
「姿が見えなかったので、探しました」
「あ…ああ、そう。悪いけど私はもう上がらせてもらうから」
「わかりました。お疲れ様です」

すっと戸の前から身体をずらせば、どこか気まずそうな日向が足早に通り過ぎる。が、余程慌てていたのかひっ掴んだバッグがドアにあたり、そのまま中身をぶち撒けた。あっと短く声が上がる。足元にしゃがみ込んでぶち撒けたものを拾い出した日向に倣い、僕も足元に転がってきたリップスティックを拾い上げる、と、同じように足元に落ちている黒いカードが目に入った。しゃがんだままそれを手に取り、じっと見つめる。

「っ、返して」

気づいた彼女がカードを奪う。そして僕が何か言うよりも早く、彼女は今度こそトイレから出て行った。残された僕は静かに立ち上がり、じっと閉められたドアを見つめた。カードに書かれた店名を頭の中で反芻しながら。




そこはネオンサインが輝く繁華街の裏路地にあった。明かりが氾濫している表通りから一本逸れ、どことなく仄暗さと妖艶さを感じさせる店が立ち並ぶ一角。この辺りが有名な風俗街だということは検索して知った。彼女のカードに書いてあった店がその中の一店だということも。店から出てくるのはいずれも人間の男女だ。その多くが一人きり。ここも例に漏れず「そういう」店なのだろう。目立たないようアンドロイドの制服ではなく潜入用の服を着ているが、先程からキャッチの女性からしつこいほどに声をかけられ、内心ぐったりとしている。自分の目的はそういった行為ではないのだが、彼女たちにとっては自分も周りの人間と同じように肉欲に飢えた人間だと見えているのだろう。事実ある人物を探して目をぎらつかせているのだから、当たらずも遠からずといったところか。
自分が何故このような行動をしているのかはわからない。けれど、いつかのリード刑事の言葉や、カードに書かれていた店名を検索した際の不可解なシステムエラーの原因は明らかに彼女に関係している。彼女がここでどういうことをしていようが自分には全く関係がないが、確認せずにはいられなかった。変異してからはソフトウェアの異常を感知することは少なくなったが、一体どうなっているのだろうか。

数時間、店の前でキャッチを断り、人間達の流れを観察していると、やがて目当ての人物がピンクネオンの戸を開けて店から出てきた。どこか虚ろな瞳、寒さに襟を寄せた彼女はあたりを見回し、それからこちらを見てはっと目を見開いた。
時が止まったかのように身体を強張らせた姿を見て、彼女の前に歩み寄る。

「なんで…」

僕を見上げてぽつりと落とされた疑問には驚きと困惑、僅かな羞恥が混じっているようだった。

「忘れ物をしたでしょう」
「忘れ物?」
「リップスティックを」

差し出した細長いそれに日向は顔を赤くして奪い取った。署で見たのと同じハンドバックにリップスティックを突っ込むと、言葉なしに踵を返す。

「御礼くらいあってもいいのでは?わざわざここまで届けに来たんです」
「届けに来た?つけてきたの間違いでしょ」

ぴしゃりと跳ね除けた日向は光るネオンの下を足早に歩いて行く。

「意外でした」
「…」
「あなたは、そういうことをしているようには見えませんから」
「黙って」

リード刑事の発言から察するに、彼はこのことを知っているのだろう。
途中、何人かの男が彼女に下品なヤジを飛ばす。日向は気にも留めずに歩き続ける。おそらくタクシーに向かうのだろう。付いてくる僕を気にしながらも決して振り返らない日向に痺れを切らしてその腕を掴む。びくりと肩が跳ねるが、彼女は振り向かないまま。

「どうしてです?あなたはハンクが好きなんでしょう」
「…黙ってって言ってるでしょ」
「焦がれる相手がいるにも関わらず、別の男性に抱かれる理由を教えていただきたい」
「…ッ」
「ああそれと、ハンクはあなたのこの行動を知って…」

瞬間、パン、と乾いた音が響いた。視界が揺れ、頬には強い衝撃。痛みはない、寧ろ硬質の素体を強打した彼女の掌の方が痛みを感じているはずだ。彼女に視線を合わせると、真っ直ぐにこちらを睨みつけていた。

「…あなたにはわからないよ」

ぽつりと呟かれた言葉にまたエラーが発生する。

「分からないから、教えてほしいと言ったんです」
「…どうして教えないといけないの」
「あなたのことを知る必要がある」
「、はあ?」
「あなたは私のパートナーですから」

彼女は絶句した。言っている言葉の意味がわからないと言わんばかりに、呆然とこちらを見つめている。

「お互いのことを知る必要があるでしょう。捜査を円滑に進めるためにも、私たちは協力するべきです」
「協力って、なに?」
「先程の疑問に対してお答えいただきたい」
「…わたしが、風俗通ってる理由が、捜査に関係するの?」
「あなたの行動パターンや言動を収集し、分析することで、あなたに適応した対応をすることが可能です。それが捜査の際にも役立つかと」

ソーシャルモジュールの活用について、合理的に説明すれば彼女の理解を得られるかと思っていたが、そうはいかなかった。懇々と説明するうちに、みるみる彼女は疲れた顔をしていく。ストレスレベルも上昇の一途を辿り、ついには俯いてしまった。
ざわざわと騒がしい雑踏の中、黙ったままだった日向はくるりと踵を返した。真っ直ぐタクシー乗り場に向かう彼女の後をついていく。また平手打ちの一つでも飛んでくるかと思ったが、そうはならなかった。やがて呼び止めたタクシーに乗り込もうとする彼女はやはり何も言わず、先の問いに答える気はないのだろう。本人に聞くのが一番だと思ったが、答えてくれないのならば彼女に関するデータを再検証する必要がある。アンドロイドのように、人間のメモリにアクセスすることはできないのだから。そう考えていると突然日向が振り返った。

「わたしがアンドロイドなら簡単にわかるのにって思ってるでしょ」
「…!」

図星をつかれた。一瞬言葉に詰まる。

「なんでかなんて…わたしだってわからないよ」

彼女は自嘲気味に笑った。

「人間は不完全な生き物だから…だから足りないところを補わないと崩れそうになるんだよ」

足りないところ、とは?首を傾げる僕を見て日向は目を細める。

「…あなたたちのほうがよっぽど完成されてる。デリカシーはないけどね」

そう吐き捨てて、彼女は呼び止めたタクシーに乗り込んだ。静かにドアが閉まり、走り出したタクシーの中で、彼女はどんな表情をしていたのか。なぜかそんなことばかりが気になった。

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