椿時雨


間違えた彼女


「こんな簡単に男の家についてくるくせに」
「あ、あッ!」

嘘じゃ、ない。
涙が散る。喘ぎながら必死に紡がれた言葉、それでも信じるには値しない。ぐちぐちと指を動かすと、否定の言葉は嬌声に変わる。口端から溢れた唾液を舐めとると、日向は溺れるようにもがいた。

泣きじゃくる日向、必死に許しを求める姿を、ずっと見たかった。

もうどうすればいいのかわからない。何を言っても信じてもらえない。いくら謝っても許してもらえない。そもそも彼は謝罪の言葉を望んでいるのか?目的は別にあるような気がして、けれどその目的がなんなのかわからない以上翻弄されるしかない。彼が飽きるのを待つか、己の意識が飛ぶのを待つかーー。どちらも恐ろしいけれど、きっとその二択しか自分に選択肢はないのだろう。いや、そもそもどちらかを日向が選べる立場にいないという時点で、日向の精神はかなり追い詰められていた。ただひたすらに溢れる涙と嬌声に、頭の中はもう何かを冷静に考える余裕などなかった。なんでこんなことになったんだっけと状況を俯瞰しようとしても、体の奥底から揺さぶられて思考は霧散する。
だんで。舌足らずに助けを求めて伸ばした掌を跳ね除けられて、その時、日向の心の逃げ場はなくなってしまった。

名前を呼ぶことも諦めて、ただ喘ぐだけの無力な存在に成り果てる。
一緒にいると思っていた。同じ、対等な立場に立って、相手を尊重していると。こうして話も聞かずに力で捻じ伏せられることは、日向が一番嫌悪する方法だった。だからこそ、そんな仕打ちを、自分が一番信頼を置く相手から受けることになるなど、夢にも思わなかったのだ。
殴られるよりはましなのかなあと場違いなことを思う。痛いのは、辛い。触れてくる手は優しい方がいいに決まっている。誰も最初から好き好んで傷つけられたいなどとは思わないだろう。ああ、でも、結局どちらも変わらないのかもしれない。昔読んだ雑誌を思い出す。殴られるのが好きなのではなく、その後の甘やかされる時間が好きなのだと、その記事を読んで納得した。大切にされているとわかる瞬間を待っているのだと。乱暴されて、その後にごめん愛しているんだと囁く。その瞬間があるから、DVの被害者は離れられないのだと。それでも、のし掛かる男が好き勝手動く度、日向は心の中で何かが確実に砕けていくのを感じた。それは恐らく、ダンデと一緒にいた時に感じた温かな気持ちや、幸せだと感じた気持ちだった。一つ一つ、大事にしていたものが壊れていく。他の誰でもない、ダンデの手によって。やめて、もう壊さないでと叫んでも、その声は届かない。大事にしてくれた、日向の言葉を一生懸命に聞いてくれたダンデは今ここにいない。

彼女なら受け止めてくれる。柔らかいだけの女ではない、確かな強かさを持った存在。簡単に壊れたりはしない。けれど、今まで無体を強いてきたことと、それに伴う苦痛を日向が何も言わずに受け止めてきたのは、偏に彼らの間に揺るがない信頼関係があったからに他ならない。強く強く、壊されるように求めてきたとしても、それはダンデの愛故だと日向は理解していた。だからこそ、今、日向の心が逃げ場を失って限界を迎えていることに、心身ともにとても受け入れられる状態でないという事実が、彼の中からはすっかり消え失せている。ただ、目の前の存在はどんな自分でも受け入れてくれると、都合の良い解釈を持って、日向の体を突き崩そうとしていた。






「不安じゃないよ」

あっけからんと日向は言った。
数年前、とある女優との熱愛が報道されたことがあった。スポンサーを交えた会食の後、ただタクシーまでエスコートしただけだ。けれど、世間は好き勝手騒ぎ立てるもの、それはダンデもよく理解していたし、好きに言わせておけばいいと以前は思っていた。けれど、大切な存在ができてからは違う。しつこく追いかけてくる報道からマイクを引ったくって、事実ではないこと、これ以上騒ぎ立てるのは控えるように、と笑顔のまま釘を刺して向かったのは彼女のマンション。驚いた顔で扉を開いた彼女をしっかりと抱きしめた。そして、彼女はそう言ったのだった。こうしてわたしのところに来てくれるって信じてるから、大丈夫。不安はないよ、と。
逆の立場ならどうだろう。俺は彼女のように言えるだろうか。相手の立場を理解し、噛み砕いて、納得できるのか。大丈夫だと笑える自信はなかった。

優しく笑うだけじゃ満たされない。泣いて縋って、貴方だけだとその口で言って欲しい。魂ごと喰らって離さないと、骨まで深く繋がりたい。



許して欲しかった。俺がなにをしても、笑って受け止めてほしい。どこにいかないという証がほしい。間違った形でも、そばにいてくれるように。

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