命は刀より重い
ふと視界で光がちらちらとまたたいた。そこは水中で、透明な青さをたたえている。わたしは海のなかを揺蕩っていた。夢を見ている、と思った。わたしはこれを夢であると自覚していた。
わたしの両手は黒い手袋に包まれた手に重ねられている。そこではじめて目の前にだれかが立っていることに気づいた。
顔を上げれば、その人物の顔がよく見えた。右耳に横の髪をかけ、少し長い前髪をふわりと揺らして深海のような色をもった瞳の青年だった。わたしよりも背が高く、力がありそうな相手なのに、夢だからというわけではなくなぜか警戒心や恐怖心といったものは抱かず、不思議なことにむしろ安心感や懐かしさを覚える。
「だれ?」
湧き上がった疑問がそのまま音になると、理知的な目がこちらをのぞき込んで視線が絡まった。彼はふっと表情を和らげて口を開いた。
「俺の名前は」
形のいいくちびるが動き言葉を紡いだ。紡いだのだと、わたしは認識した。しかし、確かに彼は名前を言ったはずなのに、わたしはその音を認識できなかった。世界から切り取られてしまったみたいに彼の名前だけが耳に届かない。
困惑した表情になったわたしに、彼はさみしげに、困ったように微笑んだ。
「名前は?」
彼は答えない。最初から伝わらないことを知っていたように、
その柔らかな笑みにはうっすらと諦観が透けていた。
「俺は、鋼だよ。あなたの刀だ」
彼は名前の代わりだというようにまっすぐとわたしを見つめたまま言った。わたしの刀、と口のなかでつぶやく。突拍子のないファンタジーのようなことだったけれど、それはとても甘やかで、しかし絶対的に正しく事実であるのだとわたしは納得した。
「じゃあ、一緒に帰れるね」
わたしの刀なら、わたしと一緒にいられるだろう。うれしくなって重なった手をきゅっと握り直すとてのひらに体温が伝わってくる。
しかし彼はやさしい温もりをわたしに与えながら首を振った。
「それはできない」
「……できないの?」
なぜかと問いかけても、彼はわたしをやさしい目で見つめ返すだけだった。ねぇ、と彼の名前を呼ぼうとしてつっかえて、そこでわたしは彼の名前を知っていると直感した。
「ねぇ、わたし、あなたの」
「主」
わたしの声は明確な意思をもって遮られた。彼は深い悲しみと後悔、そして苦痛に似た色を滲ませて、それでも美しく笑う。
「そろそろ、時間だ」
手がするりとほどかれた。彼があなたは目を閉じていればいいとやさしく囁く。絡まっていた指先まで離れると、わたしの体はゆっくりと沈んでいった。
なぜ鋼と言ったあなたが浮かんでいってわたしが沈んでいくのだろうとぼんやりと、なぜかとても悲しくなりながら思って彼を見上げていると、わたしの刀がふわりと蕾がほころぶように柔らかな笑みを咲かせる。
「人の命は刀よりずっと重いからね」
彼はそれが幸福なことであるかのように、大切なものを抱きしめるように、まるで愛おしいものを見つめるように笑っていた。
「わたしの、刀……」
頭が重くて思考が回らない。彼のことをずっと見ていたくて、手を伸ばしたくて、一緒にいてほしいのにからだが思うように動かない。意識が暗転する。
「あなたの幸せを祈っているよ」
はっと息を吸い込む。視界でちらちらと光がまたたいた。ベッドとブランケットの間で身じろぎしてはじめて、今まで眠っていたのだと自覚した。
不思議な心地で体を起こす。海の夢を見ていた気がする。とても懐かしくて愛おしい海だったはずなのに、懸命に思い出そうとすればするほど手からすり抜けていって切なささえも遠ざかっていく。
彼が最後に笑って幸せを祈っていると言っていたな、と思ったけど、そう思った瞬間には彼というだれかがいたことも、なにか言われたことさえも、ほんとうにあったことなのかわからなくなった。
とても大切な、だれかがいた気がするのに記憶をたどってみてもそんな人はいなくて、だけど心にはぽっかりと穴が開いていた。なにかが欠けている気がするだけで、ほんとうに気がするだけだろう。思い出せないのではなくて、そもそもそんな記憶なんてないはずだ。だというのになぜだかひどく悲しくて、胸をかきむしられるような痛みは消えず、ぼろぼろと流れる涙は止まらなかった。