見えない愛をかたどる
いつだって彼は私になにも残そうとしてくれなかった。私は彼のことを愛していたし、彼の存在に支えられていた。彼の方も同じように思っていただろう。それは確かだった。
けれど彼がなぜ私と結婚することに決めたのかはずっと不思議に思っていた。
「みょうじさんは亡くなりました」
そう告げられたのは、降谷零とみょうじなまえが結婚をしてからほとんど一緒に過ごしたことのない賃貸マンションの一室だった。
部下だという男性が告げた配偶者の死はなんとも淡白なものに思えた。確認した遺体の顔は意外なほどきれいで、しかし腹には穴が開き、指も欠けていると聞かされてひどく虚しくなった。
長年一緒にいた相手の死は、悲しみよりも喪失感が大きいものだった。
「なまえ、結婚してくれないか」
ある日めずらしく私の家に泊まりに来ていた零が突然、そう切り出してきた。
私たちは何年も付き合っていたし、お互いのことはわかっていた。けれど具体的に結婚したいと考えていたわけではなかったし、一緒に暮らしたこともなかった。
だから私はひどく驚いてしまって、本気かと零に訊き返した。
「本気だよ」
「それにしても、突然すぎない?」
「俺じゃだめか?」
「だめじゃないけど……」
嫌になったらいつでも離婚してくれていいからさ、と零は笑って言った。
「だめでも嫌でもないけど……でも、早すぎない? 同じ家に住むってことになるよね?」
「そうなるな……けど、もし合わなければ解約すればいいだろ?」
「……それも、そうだね」
式は挙げず、婚姻届だけ提出しようと決めた。
私が結婚しようと考えたのは、契約として形に残る家族も悪くないと思ったからだ。指輪は高くなくていいから、二人で気に入ったものを買おう。給料の数ヶ月分の指輪なんていらないから、せっかくなら実用的なものに回そうと話し合った。
それからはとんとん拍子で、お互いに部屋を探していくつか候補をピックアップし、中でも気に入ったマンションを借りた。
指輪も買い、私が好きだと言ったソファーを購入した。
結婚したところで零と会う時間が増えたわけではなかったけれど、零が私と一緒に歩く人生を選んでくれたことが、とてもうれしかった。唐突な提案だろうと、予定していなかったことであろうと、私は幸せだった。
「みょうじさんが亡くなりました」
そう言った零の部下だという男性の声と、確認した遺体、そして告げられた零の仕事について思い返す。
警察庁で公安として国のために働いていた零。優秀で潜入捜査官としてとある組織に潜っていたという。零が抱えるものの大きさは、私には想像できても理解できない。
零は婚姻届をきれいな字で埋めながら微笑んでいた。そんな気がする。
「俺はできればなまえの姓にしたいんだけど、いいか?」
「え? いいけど……零はいいの?」
姓をどちらに合わせるかは話し合うことになると思っていたため、零の言葉に拍子抜けした。
「いいよ。それに俺がみょうじになればなまえの兄弟とも同じ名前になれるしな」
零はそう言ってふざけて笑ってみせた。私の兄弟と零は一度だけ顔を合わせたことがあって、すでに両親を亡くしている私たち兄弟と同じく両親がいない零は年齢が近いこともあって意気投合していた。遠くに住んでいる兄弟は、次に零と会うことを楽しみにしていた。
「お兄ちゃんも弟も、零に会いたいって言ってたよ」
「それはうれしいな」
零がそうやって本当にうれしそうに笑うから、私までうれしくなった。けれど、いまでは私は零の顔をちゃんと思い出せているのかひどく不安になる。彼は私になにも残そうとはしなかった。
私は零の遺品をすべて引き取った。零は結婚してからもいままで暮らしていたマンションを仕事のために借り続けていたという。そこに残っていた荷物が段ボールに詰められて送られてきた。
零が使っていた日用品を除けばたったひと箱分の、少なすぎる遺品たち。その多くを占めていたのは、私から零へ送った時計やメモスタンドなど、見覚えのあるものばかりで泣きたくなった。
そして遺品の中には彼が指輪以外で私にはじめて残してくれたものがあった。それは、彼の部下である女性から手渡された。
「これ、降谷の机から見つかったものです。なまえさん宛てでしたが、中身を改めさせてもらいました、すみません」
彼の死亡を知らされたときにも遺体を確認したときにもいた女性は、零を失った私のことをとても気遣ってくれて、なにかと気にかけていてくれた。零がとても優秀で、周りから尊敬されていたと教えてくれたのも彼女だ。とても優しく、優秀な女性。その彼女が、優秀で人を気遣う優しさを持ち合わせた彼女が、言葉から見て取れるほど動揺しているのだ。
「……そんなにひどい、ものだったんですか」
頭と指先だけが冷え、痺れてくる。酸素が足りていないのだと、どこか冷静な部分で自己分析をする。私は差し出された封筒に手を伸ばせなかった。
「いいえ、いいえ、違います。ひどいものじゃないです、ほんとうに」
お願いですから、受け取ってください。彼女はそう言って泣きそうな瞳で私を見つめる。私が封筒を受け取ると、彼女は視線で開けるように促した。
緊張からか恐怖からか、開封しようと動かしているはずの指が震える。何度も失敗してしまいながらやっとの思いで封を開ける。薄い紙のような中身を引っ張り出して広げ、私は言葉を失った。
「……これ……」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。零から残されたこの紙を破り捨ててしまいたくなるほどの衝撃だった。
「なに、これ……!」
封筒とその中身を持ったままひざから崩れ落ちた私の肩を彼女が強く抱いた。彼女の頬にも涙が見えた。私は彼女にすがるように号泣することしかできなかった。
零が最後に私に遺したもの、それは離婚届だった。
零が結婚を望んだのは、名実ともに「家族」になることで、自分が死んだときに私にすべてを遺せるから。自分のことを知らせられるから。式を挙げなかったのは目立つことができないだけではなく、私が結婚したことを必要のない人にまで知られないため。名字を私の方に合わせたのは、零が言っていたことだけではなく、婚姻関係を解消しても気づかれにくいから。
離婚届を遺したのは、もし零になにかがあった場合、私が零とすぐに縁を切れるようにするためだ。
「私、降谷さんから、もし自分が危険な立場になったときや大怪我を負ったときになまえさんに渡すように言われていたんです」
彼女は悔やむようにくちびるを噛んだ。私たちはいま、零の死をほかのだれよりも共有していた。
「そうですか……」
強く瞼を閉じた。濡れた頬が冷たい。
息を吸うと喉が震えそうになる。それをこらえながら私は言葉を続けた。
「……けどもう、必要なくなっちゃいましたね」
虚しい、悲しい、許せない、悲しい、さみしい、愛しているのに。この気持ちはだれにぶつければいいのだろう。まだ、まだ、零を私から取り上げないでほしかった。彼の意思でないことを、彼に与えないでほしかった。
零が私との結婚をどう捉えていたのかは、いまとなっては知りようがない。けれど、私は確かに彼を愛していて、彼に愛されていた。
「私、零と全然会ってなかったんです……けど、ほんとうに、零の存在が、私の支えで……」
名実ともに「家族」になることでしか知り得なかっただろう事実に、そしてそれを私に知らせたいと考えていてくれた彼に、叫びたくなった。
「一緒に生きて、一緒に死にたかった」
肩を抱く彼女の手がとても温かくて優しくて、なぜだろうか零の泣き笑いの顔が浮かんだ。
いつだってなにも残してくれない彼が、明確な彼の意思を持って最後に私に遺した形のあるものは、ただの指輪でしかない結婚指輪と意味のなさない離婚届だけだった。そしてそれらは間違いなく、見えない愛を形にした最愛の彼からの、最愛の私への、贈り物だったのだ。