酩酊の夢で終わるな
だれにも見咎められず、彼とふたりで話ができる機会をずっと窺っていた。柔らかそうな金色の髪と深く透き通った黄と緑がきらめくクリソベリルのような瞳。どこか甘さを感じさせる耳に心地のいい声と、猫の呪いだという特徴的な語尾。私のいる席からはそのどれもが遠く、ただしゃんと伸びた彼の背筋が美しいことだけがわかる。
時折開催される飲み会には見た目が子どもの短刀から背の高い槍たちまで酒好きはほぼ例外なく参加する。特に決まった席などは設けられず、各々好きに集まっては小さな島をつくって飲むのが常だった。肩肘張らず参加できる宴会のため、飲み会の雰囲気と食事を楽しむ者、酒は嗜む程度で談笑に興じる者、好きな酒を注ぎ合いながら空き瓶をつくっていく者など十人十色だ。
本日の宴会が始まって数時間。いつもと同じく夜明け近くまで飲む刀もいる一方で夜が更けてくると三々五々に帰っていく刀も見えてくる頃だ。彼、南泉一文字は後者にあたる刀だ。彼はあまり深酒をするタイプではなく最後まで残ることはほとんどない。そのため彼が自室へ戻るタイミングを見計らえば彼とふたりになって胸の内でずっと秘めてきた恋心を伝えることができるはずだった。
彼の挙動を注視しすぎて上の空にならないように気をつけながら周囲の刀たちと会話を交しつつ、時折彼のほうへ視線をやることは忘れない。密かに観察を続けていれば、彼がそれまで一緒に飲んでいた明石国行との話を切り上げて席を立った。
ばくばくと心音が強まる。心の中でスリーカウントをしてからグラスの底に残った数センチ分のカクテルを飲み干し、一緒に飲んでいた面々に「そろそろ寝るね」と一声かけて腰を上げた。
おやすみと口々に挨拶をしてくれる刀たちに手を振り返し、人気のない廊下に出る。広間からはいくつもの笑い声と話し声が重なって響いてくる。ざわめきを背中で感じながら辺りを見回し、他にだれもいないことを確認して私は彼に駆け寄った。
「南泉くん」
思ったよりも追いすがるような必死さが滲んだ声になった。私の声に振り返った彼に手を伸ばし、その手首を両手でぎゅっと握ってその場に押しとどめる。彼は私がなにか言うのを待ってくれているようだった。しかし伝えたいことはあるのに頭がぼんやりとして意味のある音にならない。言いあぐねているうちに急に速度を上げて駆け寄ったためかアルコールが一気に回り、その場にへたり込んでしまった。
衣擦れの音がして彼がかがんでくれたのがわかった。大丈夫と言葉にするも声がかすれてしまい、それがあまりにも頼りない響きで情けなくなる。それでもずっと抱えてきたこの気持ちだけはどうしても伝えたくて、彼のシャツを握りしめ必死に目を合わせて思いを紡ぐ。
「南泉くん、好きなの。好きです」
言葉とともにぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
彼の言葉を持つのも、彼の表情を伺うのも怖くて仕方ない。それでも彼の答えを受け入れようと視線を逸らさず、まっすぐ見上げる。彼は困ったようにわずかに眉を下げ、そしてはぁ、とため息をついた。その反応に胸がぎゅっと軋んで呼吸が苦しくなる。
「そんなに泣くなって」
彼は呆れた表情を浮かべつつも思いの外やさしい声色でそう告げ、私の頬を滑っていた涙をそっと払った。それでもせぐりあげる私に彼は「仕方ない主だにゃあ」とふわりと笑い、体調は悪くないかと確認してからゆっくりと立ち上がらせてくれた。
「部屋、戻るんだろ?」
「……やだ」
逃がすまいと彼の洋服をつかんだ手に力を込め、ふらつく体で彼にすがりつく。
「へんじくれるまで戻んない」
こもった涙声で主張するも、彼は私の手を丁寧に洋服から外させる。そしてちょっと失礼と告げると彼は私を横抱きにして歩き始めた。浮遊感とともに彼の匂いが近くなって、実感を持てないまま心拍数と頬の熱がどんどん上がっていく。
彼は廊下を進み、刀剣男士たちの居住区を越えていく。私を寝室まで運んでくれるらしかった。その面倒見のよさとやさしさにどうしようもなく泣けてきてしまって、戸惑いと驚きで一度は引っ込んでいた涙がまたあふれてくる。
「もういいよ、おろしてよぉ、返事だけくれればいいからぁ」
彼の胸元に顔を埋めて泣き声を抑えながら懇願するも、添えられた手が宥めるようにやさしく背を叩くだけで私の訴えは黙殺された。
告げた思いを受け入れることも断ることもなく折り目正しさをもって差し置かれてしまって胸が張り裂けそうなのに、彼の体温が近づいたことで頬も頭も沸騰しそうなほど熱かった。甘くて柔らかくてずっとくっついていたくなるような香りに体の奥から感情が揺さぶられる。いますぐ離れなくては、ずっと触れていたい、遠ざけないと、もっと近くで触れたい、そんな相反する思いが交互に浮かんでは消えていく。
彼は入るぞと断ってから寝室の扉を開け、私をベッドに降ろした。丁重に、大切なものを扱う彼の動作にまた胸と目頭がぎゅっと痛くなる。
「なんせんくん」
乱れた髪をさっと直して離れていこうとする彼の手を握る。
「返事、くれないの」
もう泣きじゃくることを隠そうともせずに声を上げれば、彼は口元に慈悲にも似た笑みを浮かべ、そっと手を解いた。そして両手で私の手を包み込み、言い聞かせる口調と視線で私を縫いとめる。
「酔ってないときに言ってくれたら聞かせる、にゃ」
「よってないから、いま、おしえて」
私が追いすがっても、彼は酔っ払いの相手はしないと言葉だけは厳しく柔らかな響きをもって告げる。
「じゃあもう返事なんていらないからきすして」
南泉くん、甘えと怯えが入り混じった声で彼を呼ぶ。しかし彼の余裕を崩すことも気を引くこともできない。
「それは困るにゃあ」
口先ばかり困ってみせる恋しい相手に、それでも我慢できずに懇願を重ねる。
「困らないから、きすして」
請いながら彼の手を今度は私から振り払って、彼の首に両手を回す。細く柔らかな髪としっかりとした首筋を感じながら体重をかけて彼を引き寄せた。彼の髪が頬をかすめて、目を閉じる寸前に深いはちみつ色がわずかに見開かれたのが視界に入った。
私よりも体温の低い唇と触れ合った瞬間、じんわり脳の奥が痺れる心地がした。彼の呼気にすら甘さを覚え、角度を変えて深くなるくちづけにくらくらする。快楽からか寂寞からか、また涙が転がり落ちた。
しっとり濡れた吐息が私と彼の唇からこぼれる。咄嗟に焦点を結べないほどの至近距離で、わずかに熱を上げた、しかし理性の色を保ったままの彼の瞳を見つめた。
「おねがい、いかないで、ここにいて……へんじなんていらないから、今日だけでいいからここにいて……なんせんくん……」
すべて投げ出したくなるような虚無感と、私の手を決して無理に引き剥がそうとはしない彼への恋慕が募っていく。一時の夢をほしがって再び顔を寄せれば、彼はくちづけを許さずこつりと額を合わせてから離れていく。
「寝るまで、な」
まるでキスなんてなかったかのように動揺のひとかけらも見せてくれない。主従の境界線などとうにぼやけているのに、ひとり余裕な顔をして私を宥めようとするのだ。
「やだ、ねない……」
「明日も仕事だろ、無理すんな」
眠りにつくことを拒否するも、彼の穏やかな声に奥底にあった眠気が誘われていく。温かな手が前髪を整えるようになでていき、やがて私の意識はすとんと落ちるように眠りに沈んでいった。
瞼を閉じたまま朝の気配を感じ、まぶしい光に慣らすようゆっくりと目を開く。カーテン越しに突き刺す朝日にぼやけていた意識が一気に覚醒した。ひどく体が重かった。指先で目元をなぞれば、腫れた瞼がわずかに熱を持っている。軋む上体をおもむろに起こし、携帯端末を確認すればアラームが鳴る5分前だった。
深く息をつき、ベッドから抜け出して身支度を整えながら昨晩のことを思い返す。酩酊が見せた夢にしては彼の香りも体温も触れ合った感覚も鮮明で、記憶を辿れば体の奥底に燻っていた熱が彩度を高めた。
「なんせんくん」
なぞった彼の名前が部屋に虚しく響く。キスは拒絶されなかったけど、結局返事はもらえなかった。昨晩の彼の態度から、嫌われたり距離を置きたいと思われていたりするわけではないとは思う。ただ、彼は私と同じ熱量の好意を返せないのだろうと痛感した。
深呼吸を繰り返すことで喉元に込み上げてくる苦しさをやり過ごす。そして支度を終えて自室を出る前に今日のスケジュールの最終確認を行った。出陣先、遠征の組み合わせ、内番、会議、そして近侍。
「あっ」
端末に表示された予定を追えば、その項目に表示された名につい声がもれる。
私は彼とふたりきりになれる機会を窺って告白をした。つまりある程度の計画性をもって臨み、勢いだけで行動したつもりはなかったのだが、存外私は冷静さを欠いていたらしい。
端末が映し出す本日の近侍の名前は、南泉一文字となっていた。
「やだなぁ……」
嘆息とともに心情を吐露すれば声が泣き出しそうに震えてしまう。しかしすべては自らの行いが招いたことであり、私情で職務を放棄することもできない。
喉の奥に小石が詰まったような居心地の悪さを覚えながらも私は執務室へ赴き、これまでと変わらない態度を意識して彼を出迎えた。彼は始業時間前に執務室に現れ、普段と同じ様子で私と挨拶を交わして必要な書類の準備を手際よく終えると仕事に着手する。
受け入れてもらえる確信があって思いを告げたわけではない。断られてしまってもいいから、抑えきれない恋慕を彼に伝えたいと告白した。しかしその点を割り切っているからとはいえ気持ちを伝えた上、泣きじゃくりながら縋る醜態を晒した翌日に平常心を保つことは難しい。
本丸の主として表面上は普段通りを心がけて仕事をこなすも、内心ではざわめきが収まることはない。一方で彼は朝の挨拶にはじまり終業を告げるときまでいつもと変わらないようだった。
昨晩のできごとは都合のいい夢というには現実味を帯びており、甘美な痛みと恍惚とした心地がいまだ体の奥底に燻っていた。同じ形をした心が手に入らなくてもいいと思っていたのに、一方的に彼の体温に触れてそのぬくもりを知ってしまったいまは、彼の心がほしいと願ってしまう。
しかし心はまだ熱を訴えているのに、頭の隅のほうはしんと冷え切っていた。彼の様子は至って単調だった。きっと彼の目には昨晩の私の言動は上滑りなものとして映っただろう。それでも主従としての適切な距離を保って接してくれている。それはつまり彼が私のことなど全く意識もせず、ただ主としてある程度の好意を寄せてくれているだけなのだ。勝手に手を伸ばして触れた熱は離れがたく一時の夢で終わらせたくないと思うのに、彼の態度にこれ以上踏み込むことはできないと怯懦が手綱を締める。
「今日もおつかれさまでした」
終業時間となったため、労いの言葉とともに退出を促す。彼から昨晩のことについて言及されることはついぞなかった。彼はよく通る声で辞すると品のある洗練された動作で頭を下げて退室する。丁寧に扉が閉められる音が拒絶のように私の耳に静かに響いた。
「……やだなぁ……」
遣る瀬ない思いを抱えながら読むともなしに彼が仕上げた報告書の署名を指でなぞる。立ち尽くしたままぼんやりと彼の整った手蹟を眺めていると、不意に背後の扉がノックされた。びくりと肩が飛び跳ねる。
反射的に返事をして扉のほうを振り返ろうとすれば、視界の端に光を反射して淡く揺れる金色の髪が映った。
正面から視線を合わせようと私が向き直る前に、彼はぐっと距離を詰める。そしてその勢いのまま彼の腕が後ろから私を閉じ込めた。遅れてドアが閉まる重い音がする。
「え、あっ、なに……」
突然のことに頭がついていけず他人事のようにぼやけていた輪郭が、彼の体温を認識した途端に鮮明になる。彼の匂いにまた頭蓋が揺さぶられるような情動が走る。焦げついてしまいそうなほどほろ苦く甘い痺れが心臓を中心に頭頂部からつま先まで広がった。
胸元で彼の腕が交差して身動きが取れないまま、羞恥と緊張と期待から全身が震える。その場に彼を縫いとめたいのか、心臓に悪いこの体勢から逃れたいのか、自分でもどうしたいのかわからないまま自由に動かせる指先で彼の服の袖を握りしめた。
「忘れ物」
「え……?」
にわかに投げられた単語と耳朶を打つ甘い色が溶けた音が噛み合わない。美しく架かった弦のように張りのある彼の声のなかには、いつもと決定的に違う熱を孕んだ甘さが滲んでいた。
するりと側頭部に彼の頬が近づけられる気配がする。びくりと跳ねた私の体を逃がさないというふうに彼の腕に力が加わり密着度が上がった。そして耳元に低くかすれた甘やかな声が流し込まれる。
「返事、聞きたいなら」
はっと吐息がもれた。自分の心音と掛け時計が刻む秒針の音がいやに大きく聞こえる。
「ちゃんと言いに来い……待ってる、にゃ」
ふっと拘束が緩み、体温が離れて足音が遠ざかる。なにも反応できないままその場にへたり込み、震えが止まらない指先で口元を覆う。そろりと振り返れば、彼は未来を予感させるような色をその瞳にのぞかせて去っていった。
祈るように両手を組み、残光のような彼の微笑みをなぞる。私は酩酊の夢だけで終わらせない選択をし、今度こそ取りこぼすことなく慕情を伝えるために彼の背中を追いかけた。