不合理なシナプス

「山姥切? ……あ、ごめんなさい」
 端末を耳元から離した青年に女性が声をかけた。通話中だと気づかずに話しかけたことに小声で謝罪した女性へ青年は端末をしまって返事をした。
「いや、電話はもう終えたから大丈夫だ」
 山姥切と呼びかけられた人物は羽織った布をはためかせながら自らの主である審神者のほうへ向き直り、小さく微笑んでみせた。
「なにかあったのか?」
「ううん。たいしたことじゃないの……というか、雑談?」
 休憩時間にしようと山姥切を呼びに来たのだと告げた審神者がケーキもちょうどふたり分あるのだといたずらっぽく口元をほころばせるので、彼は彼女の雑談とやらに付き合うことにした。
 休憩室のテーブルで向かい合って座り、審神者は彼がいれたアイスコーヒーを受け取る。ひと口飲むと華やかな笑みをぱっとその顔に咲かせ、彼女は前のめりになり楽し気に口を開いた。
「あのね、地獄みたいなシナリオを考えてみたのよ」
「いいから仕事をしてくれ……と、言えるような主ならよかったのにな」
 きっちり仕事を終えて休憩に入った審神者はどこか遠い目をして微笑んだ己が初期刀ににっこりと笑みを返し、
「それはつまり、あたしがすべき仕事を効率よく的確にできている優秀な主だという称賛よね、ありがとう」
 とわざとらしく言ってみせた。
「それでね、これはなにか客観的な証拠があるわけではないというのは念頭に置いておいてほしいんだけど、あたしの考えの大前提として、刀剣の顕現する姿は人間のイメージがある程度反映されていると思うのね」
「たとえば、五虎退が虎とともに顕現しているとか、一期一振の戦装束が華やかである、とかか?」
「そう。あとはまぁ、あなたたち刀剣男士って……人間相手とは違うからはっきり言っていいか……うん、客観的に見て左右対称の顔で、美しいと言える顔立ちでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「それも本体の、刀の美しさからの連想というか……正直、宝石とか装飾品とか、刀剣同様美しさという基準で評価されるものを擬人化するときに見目麗しいひと以外を連想するのが難しいと思うのよね……あっ、ちなみに山姥切はダイヤモンドを擬人化するならどういう見た目を連想する? ちなみにあたしは透明感のある肌で姿勢のいい人っていうイメージかな」
 突然の話題転換に彼は一度まばたきをしてから苦い笑みをこぼした。
「待て待て、とりあえず顕現を擬人化とか言うな。一気に安っぽくなる。確かにきれいなものを連想するのはわかるが、擬人化と表現するのはやめてほしい。あと、ダイヤモンドなら清廉潔白や明鏡止水という言葉が似合いそうな人物が思い浮かぶな」
 窘めつつも審神者の意見に同意し、自身のイメージを述べた刀剣に彼女はいたずらっぽく笑ってから軌道修正を図った。
「つい脇道に逸れちゃった。本題に戻ると……まず、客観的に見て山姥切長義と山姥切国広の外見って似ているでしょう?」
「髪型をそろえてモノクロ写真にしたら双子に見えるくらいには似ているかな。デザインの原型は同じだろう」
 彼女の言わんとしていることを薄く察した彼は外連味なく返す。
「そういう率直な物言い、とても好きです。それで、さっき話した前提に基づくと、擬人化もとい顕現する際の容姿云々は人間というかおそらく政府の性癖かイメージを反映させているのよね。それで、本科と写しなら似ているのではないかと思うもしくは似せるべきという意見があって、山姥切国広と山姥切長義の顔立ちは酷似している……と思ってるのよ。まぁこれも蛇足で、人間のイメージ云々はあたしが勝手に主張したかっただけなんだけど」
 審神者はそこまでひと息で言いきり、飲み物で小休止を挟んでから話を再開する。
「……つまりなにが言いたかったかというと、山姥切国広に特別感情を寄せていた審神者とか、山姥切長義に重い恋愛感情を抱いていた審神者とか、その思いを寄せる刀剣が折れたときにどちらも本丸にいるまたはどちらかが顕現した本丸だったら、前者は山姥切長義を山姥切国広って呼んで、後者はその逆で呼ぶ、みたいな地獄が見られそうだなーと」
 ストローにかき混ぜられた氷が金色がかった黒い海でからんころと音を立てた。彼女はその涼やかな音色を楽しむかのようにゆっくりとグラスの中に円を五つ描いてからストローに口をつけた。
 彼は夏らしい音と彼女の紡ぐ声に耳を傾けながらくちびるを引き結んだ。苦しげに眉を寄せた彼の表情にコーヒーを飲む彼女は気づかない。
「地獄だな」彼は顔を上げた彼女に苦笑しつつも楽しんでいる口調で感想を述べた。
「けどそんな地獄を考えてしまうのがあたしなのよ」
 真面目な顔をして言う審神者に、彼は小さく肩をすくめてみせて自分の分のアイスコーヒーに手をつけた。
「物語として、だろう」
 一歩引いた冷静さで返した彼に、彼女は笑って首肯した。
「そりゃあね。現実で起こしたくないし起こってほしくないわよ。自分の本丸でもどこかの本丸でもね。特にあたしの本丸で、というなら客観的に正常でいたいし?」
 当然だけどねと付け加えた彼女は彼に倣うようにグラスを引き寄せてコーヒーを飲み、ふっと息を吐くと話を再開した。
「それでね、ストックホルム症候群だけど……」
「……それはいまの話の続きか?」
 話を遮ってすまないが、と前置きした彼は怪訝そうに彼女へ問いかける。
「あたしのなかでは地続きよー。なんていうか、ざっくり言うと、いまの地獄もストックホルム症候群も歪められた認識って感じじゃない。現実を違うものと捉えることで自分の心を守る、まぁひとつの手段かな? 防衛機制ね」
「確かにそう言えるかな」
「でしょう? それで、あたしはそういう防衛機制があると認識をしているじゃない?」
「ああ」
「認識をしている場合、していないひとよりもそういった状態になりにくいってあるのかしらと思って。個人的にはそれを知っていることで、親愛の情を抱きそうになってもこれはストックホルム症候群だって認識できそうじゃないかと思うのよね」
「無意識でない場合にも似たような心理的メカニズムは見受けられそうだが」
「それはストレスコーピングになるのかしら……うーん、文献でも漁る……?」
「詳しいわけじゃないのか?」
「あたしの所属していた学部は文学部英文科よ」
「なるほど」
「そういえば大学の話、あんまりしてなかったね?」
「……そうだな。どんな学生だったんだ?」
「うーん、そうねぇ……勉強にもバイトにもそれなりに力は入れてたかな? 教授に大学院への進学を勧められるくらいには優秀だったのよ、実は。なんてね」
 少なくとも要領はよかったかなと審神者は笑う。
「優秀だというのは知っている」
 首席で卒業したという話はいつか彼女自身が彼に言っていた。彼は要領のよさだけでなく彼女の努力もあったのだろうと思ったが口には出さず、ただ柔らかな口調で知っているとだけ告げた。
「ふふ、ありがと。あたしの初期刀はきれいでやさしいね」
 彼女の言葉に彼は波のない海のように静かな、しかし諦観を滲ませた穏やかさをその目に溶かしたままストローへ口をつけた。彼女もそれを見てコーヒーをひと口飲み、
「……拡散ばかり」
 大仰に嘆息しそう言った。そして彼が視線で話の続きを促すと姿勢を正す。
「たいした知識もない、というのは言い訳だけど、とにかく思考が散らかっているなぁと思ったの。そして連想なんだけど……忘却って、その忘れたものは本人にとってなかったことと同じじゃない? 忘れたら知らないことと同じ」
 目を合わせたまま顎を軽く引くように頷き話を聞いていると言外に示した彼に、彼女は言葉を続ける。
「そう、たとえば……記憶を阻害する薬を使って、あるいは手術で特定の出来事を消すことができたら、きっと人間は今よりずっと穏やかに生きられる……どう思う?」
 上目遣いに窺った彼女の視線は存外鋭い。彼女の近侍はそれを試される心地で受け止める。
「忘れるが仏?」
 そして皮肉る調子で語尾を上げ、彼は薄く笑んだ。彼のその反応に彼女は意外そうに眉を上げる。
「いいことがどうかは置いておくとして、気楽ではありそうじゃない?」
「然もありなん」
 彼が気のない口調で言って小さく肩をすくめてみせると彼に合わせて羽織った布が柔らかく動いた。審神者は口の端を上げて彼に返す。
「まあ、技術があったとして社会が許容するとは思えないけどね。特にあたし個人がそうしたいと考えているわけでもないし……ああ、でもそういうひとがどうやって生きていくのか観察したい気持ちはあるかな?」
「非倫理的」
「憲法19条」
 形式的かつ端的に非難の体で放った彼の言葉を彼女は同じく単語のみでさらりと受け流してみせ、くちびるを笑みの形にして近侍に問いかけた。
「さて、ほんとうに忘れたいことを忘れられる技術があるとして、それを使いたいと思う?」
 彼は一拍置き、否と答えた。
「その忘れたいと願うほどのものは、おそらく俺にとってとても大切なものだろう……それなら忘れずに、どんなくもがこうと、苦しもうと、折れてしまいたいと願おうと、それでも丸ごと抱えて生きていきたい」
「……あたしも、そう思う」
「……そうか」
 数秒の間が空いたあと、彼女がくちびるを動かす。
「そうよ、山姥切長義」
 波で揺らいだ瞳で彼と相対した彼女は彼の名前を正しく呼んで微笑を浮かべた。
「え?」
 ひどく無防備な表情をのぞかせた山姥切長義と呼ばれた刀剣はしかしすぐに動揺を収めて主である審神者を緊張を孕んだような顔で見返す。彼はわずかに険しくなった表情をもう彼女に隠そうとしていなかった。それは彼女の口から語られるであろうことに身構えているようにも、すべてを悟っているようにも見えた。
「……あたしは正常よ。現実を客観的に見て正しく歪曲させず認識している。あなたは、山姥切長義はあたしの初期刀じゃないし、あたしの初期刀は山姥切国広だし、その彼は、山姥切は、折れた」
 揺るぎない表情にわずかな笑みを乗せ、泰然とした彼女は決して大きくはない、しかしはっきりとした声で言いきった。彼は彼女のその様子に表情を消し、彼女の内面をのぞき込むように瞳を見つめた。
「なぜ」
 審神者は彼の短い問いから正確に意図を読み取った。
「ちゃんと……って言っていいのかわからないけど、長義の前でだけよ、さっきみたいな言動をするのは」
「あなたがふざけてそういったことをしたわけではないとわかっている。しかし……」
「所詮、あたしはこんなものだよ」
 こんなものだよ、と繰り返した。あきれるがいいわ、美しい刀。波がざわめくように彼女の瞳からひと筋のしずくが伝った。山姥切長義は落涙してもなお強い色を湛えたままの彼女を、なにかを探るように目を伏せてから面を上げ深い海に似た透明なそれで見つめ返した。
「あなたは完璧に正しく認識できているわけではない……いや、これは的確な言い方ではないな。今のあなたは彼が折れる前のあなたが思うであろう正常という状態にないと俺は考える」
「なぜ」
「先ほどの振る舞いは、俺とあなたの関係がどんなものであっても、彼が折れる前のあなたならしなかっただろうと思われるからだ」
 自身と同様にふたつの音で訊ねた彼女に張りつめた、しかし落ち着きのある声で山姥切長義は述べた。彼女は微笑みのような曖昧な形にくちびるを歪め、小首をかしげる。
「……そっかぁ。あなたにはそう映っていたのか。うーん、あたし、疲れている……の、よね?」
「あなたは自分が疲弊していると認識した。すばらしい一歩だ」
 大仰な響きで言った彼に、彼女はおかしそうに笑う。
「皮肉?」
「まさか。認識することで抑止力になるか、負担が軽減できるのならいいと思っただけだよ。メタ認知は大切だろう?」
 そうね、と同意を彼女は口のなかでつぶやいた。
「……ねぇ、あたし不眠症気味なんだけど、病院に行くべき?」
「実はもう病院に予約を入れてある」
「長義って優秀な近侍ね」
「その評価に違わない働きを続けたいところだよ」
 柔らかな声でそう言った山姥切長義は、歯を食いしばって声を上げずにぼろぼろと涙をこぼす彼女から窓の外へと視線を転じた。
 ひまわり畑には鮮やかな大輪が夕陽に移り変わりつつある日差しを浴びている。萎びかけたひまわりは、しかしその美しい色のまま光を求めて空を見上げていた。日差しのまぶしさに視界が滲んだ彼は瞼を下ろし、ぐっと目を閉じた。