孕んだ愛は隠したままで
早く彼氏作れよ、と黒尾は口癖のように私に言う。昔は抉られていた傷口も今では何度も何度も傷付くうちに耐性ができてしまったようで、ほんの少し疼く程度だ。
黒尾鉄朗は、美しいと思う。
社会人になってからは高校大学と続けていたロードワークや筋トレの頻度がめっきり減ったらしいが、薄くついた腹筋はそれでも綺麗に割れていて見とれてしまいそうになる。学生の頃よりも筋肉が落ちた分細身になったとはいえ、その腕もしっかりとしていて抱かれるととても心地いいのだ。
その男に唯一体を許されているなんて、恍惚としてしまいそうになる。
その事実だけが私を満たしてくれていた。
「私、別に彼氏ほしくないし……黒尾とするのきもちーから、そういうのいいや」
「それはどーも」
リップサービスと受け取ったのか、返答ぶりは軽い。
「本心だからね〜?」
「どうだか」
口角を上げて笑う黒尾は色っぽくて、男女や色恋沙汰を問わずモテる部類の人物であるのに、彼女も作らずたった一人のセフレとこうして会ってお酒を飲んでセックスして、なんでもない顔をして会社に行って。人って見かけによらないんだと、黒尾のおかげで理解した気がする。
もちろんこの行為も関係性も悪いことではないけれど、きっとこういったことをしていると知れば、互いの友人の中にも顔をしかめる人はいるだろう。
「ほんと、わっかんないよねー……」
「何が」
「なんでもない」
教えない、とふざけるように笑えば不意打ちで唇を塞がれた。
黒尾とのキスは、気持ちいい。ハグもキスもセックスも、気持ちいいものだとすべて黒尾から教わった。ぐちゃぐちゃに合わさった唾液さえも興奮剤になるのだと、初めて知った。
まだかわいげのある、じゃれ合うようなキスを繰り返していれば、そっとベッドに押し倒される。
「いいですか、#なまえ#チャン」
「よきにはからえ」
こつりと額を合わせて笑い合う。まるで本当の恋人同士のようだ。
だけど決して私も黒尾も好きだとか、付き合おうとか、そんな言葉は口にしない。最初にお酒の勢いだけで致してしまったとき、お互いに恋愛感情を抱いているはずだった。だけどそのときには黒尾にも私にも付き合っている相手がいて、セフレという本命になりえない場所に収まるしかなかったのだ。今思えばもっと他に方法があったはずなのに、あの頃、二十歳になったばかりの私たちは若くて、未熟だったのだ。
そして、それと同時に必死だったのだ。ずるずると関係を続けて、縁が切れないようになんでもないような顔をして相手を手繰り寄せ続けた。
そうしているうちに、いちばんなりたかったはずの恋人という名前がついた関係に踏み出せなくなって、居心地のよさから抜け出せなくなって、素直に手を伸ばせない歯がゆさにもがこうとすることもなくなってきた。
ブラウスのボタンを外していく黒尾の手つきは慣れていて、それでも私たちが関係を持ったときになんとなくぎこちなくなって別れたという彼女以外には私としかこういうことをしていないはずで、優越感にも似た感情が心を占める。
「黒尾ってホント、いい男だよね」
「そりゃどーも」
#みょうじ#もいい女だけどな、と言葉を添える黒尾は随分と余裕そうだ。
そんな余裕を奪ってやる、とこちらからキスを仕掛ければ黒尾に火を付けてしまったようで、唇を離した頃には息が上がっていた。ベッドに程よく沈む感覚が心地いい。
ぼんやりと黒尾を見上げると、節くれだった大きな手が労るように肩をなでてくれる。
「ねー、黒尾は? 彼女作らないの?」
「別にそれ、話すことじゃねーだろ?」
「じゃあ私にもその話題振らないでよ」
「でも俺はお前のこと、気になるんだけど?」
耳元で低く少し掠れた黒尾の声でそう囁かれ、ぞくりとする。思わず近付いた黒尾の首筋に手を当てれば、その手を掴まれて薬指に口付けられた。
「くろ、お……」
「なあ、みょうじ」
呼びかけられたが、困惑を隠せずに無言で見つめ返すと黒尾は少し不機嫌な表情になる。何か返答しようと開きかけた口を唇で塞いだ。
「ほんとに彼氏とかほしくないわけ?」
「ん、ちょっと……」
問いかけるわりに、キスをはさんでくるからなにも答えることができない。
「教えてくんねぇの?」
曖昧にぶら下がった言葉が心を揺さぶる。そんなのまるで、好きだと言われているみたいじゃないか。けど、決定打にはなりえない。先に進むことに、変化することに怯え、誤魔化すように重なる唇。思考も何もかも止めて、ただこの時間に浸っていたいと思ってしまう。
キスの間に脱がされていく服がうっとおしい。
お互いにすべて衣服を取り去ったあとに抱きしめ合えば、黒尾のしっかりとしていて綺麗な腕の力が少し強くなった。まるで好きだと言われているようだ、といつも思う。そして、彼を見る私の目も、黒尾から見たら愛おしいという感情で満ちているのだろう。
「キス」
一言そう告げれば、瞼に、頬に、唇に、温もりが降ってくる。それすらも愛を囁かれているようだとうっすら考えた。
まだ、気持ちを告げる勇気などない。最初から言葉にする素直さなんて持ち合わせてなどいなかったのかもしれない。それでも、私も黒尾も、この関係に辟易しつつ、お互いの唯一無二の存在というものが存外気に入っているのだ。だから余計に踏み出せない。
上がっていく快感と強く握られた手に意識が持っていかれる。
ああ、好きだ。
黒尾も、黒尾とする行為も、抱きしめられる腕の強さも、時折髪をなでてくれる手つきも、唯一だと言えることも。
もう、悲しみも虚しさも充足も優越感も、快楽さえも綯い交ぜになって、感情の境界が不分明だった。滲んだ視界は涙のせいなのに、なぜ涙がこぼれてしまうのかは曖昧だ。
「くろお」
ただ彼の名前だけを吐息に乗せれば、黒尾も耳元で私の名前を呼び返した。きっとお互いに「好き」だとか「気持ちいい」だとか、言葉にできなかった気持ちの代わりに名前を口にしている。
私はやはりぐちゃぐちゃの心のまま、黒尾の背中に爪を立てる。そして、今だけは何も考えないよう強くつよく目を閉じた。