夏の隙間にて邂逅

 なまえは講義の入っていない盆の期間、自宅での勉強を2時間ほどで切り上げて美術館へ足を運んでいた。
 芸術に詳しいというわけではなかったが作品を見てその歴史を学ぶことが好きで、なまえはそう頻度は高くないが美術館――ときには博物館も――に行く。
 数十年ぶりに日本にやってきたという絵画をたっぷり時間をかけて鑑賞し、なまえは肌寒いくらいの展示室から出た。
 時刻は13時。昨日までであれば自宅で勉強をしていた時間だったが、なまえは今日を息抜きの日にしようと決めていたためこうして久しぶりに感じる外出をしているのだ。今日は午前中に美術館、午後からはアートアクアリウム展、夕方からは友人と夏祭りを冷やかしに行く予定だった。
 なまえは絵画のクリアファイルやポストカードなどが売られて賑わっている物販コーナーを横目で通り過ぎ、ホールに併設しているカフェでコーヒーとサンドウィッチ、セットのケーキを頼んだ。手渡された3品をテーブルに運び、綺麗に盛り付けられたそれらを取り出した携帯で写真を撮る。液晶画面の青い小鳥のアイコンをタップし、撮影したばかりの画像を添付してひとりごとを投稿した。それが送信されたのを見届けてからなまえは携帯を伏せ置き、コーヒーに口を付ける。
 昼食を終えると、なまえは次の目的へ行こうと席を立った。時計の針はあと少しで午後2時を指す。建物を出ると強い日差しが肌に刺さるようだった。なまえはそれを遮るように日傘を開き、軽い足取りで駅へと向かう。
 電車で揺られること数十分、アートアクアリウム展の開催される会場の最寄り駅に到着した。以前に一度来たことがあったなまえは迷うことなく歩みを進める。駅から徒歩5分という条件のいい立地に立つその建物はすぐにわかる場所だ。なまえは青信号を渡ると、日傘を仕舞いそのビルに入っていった。
 建物内に入ると外の暑さが嘘のように汗が引いていく。なまえはタオルで軽く肌を押さえてから手に持ったそれで首元を扇ぎながらエスカレーターに乗り、上の階へ行った。そこでチケットを購入し展示ルームへ入る。薄暗い展示室は様々な形の水槽を泳ぐ金魚たちと多くの客でいっぱいだった。写真撮影が可能ということだったため、なまえは時間をかけて一周観賞してからもう一度最初の水槽に戻り、携帯のカメラを起動する。なまえはこのアートアクアリウム展は恋人同士や友人同士、または家族連れが多いと予想していたが、意外にもひとりで来ている人もそれなりに多く、3人以上で来ている客が少なかったため移動がしやすかった。
 気が付けばなまえが来場してから2時間ほど経っており、すでに5時近い。友人と待ち合わせしている時間は6時のため、そろそろ出た方がいいだろうと判断したなまえは通路の水槽を眺めながら出口へと足を向けた。


  ◇  ◇  ◇


 まだうっすらと空は明るいが、一歩屋台のある通りに入れば祭り独特の空気とオレンジの明りが全身を包み、時間感覚なんてものはすぐになくなってしまう。
 なまえは友人と待ち合わせて駅から祭りの中心となる通りまで歩いてきたが、浴衣を着た人など祭りに向かうとひと目でわかる人たちの流れができていた。何を食べようか、どこを見て回ろうか、そんなことを話しながら歩いていればすぐに屋台の通りに着いてしまう。
 なまえは綿菓子を、友人はベビーカステラを最初に購入し、ひとつひとつの屋台を冷やかしながら通りを歩く。
「なまえ、あたし次は焼きそば食べたい。いい?」
「いいよ。私は何食べようかな」
 最後のひとつとなったベビーカステラを食べ終えてすぐに次の標的を定めた彼女に笑いながら、なまえも綿菓子を完食した。
 なまえと友人はそれから一周通りを見て回り散々悩んだ結果、焼きそばとフランクフルト、フライドポテトを買って二人で分けてそれらを食べることにした。
通りから少し逸れた階段に腰をかけた友人はすでにパックを開けて割り箸を取り出している。
「いっぱい食べたいもんねー」
 さっそく焼きそばを頬張ってにこにことそんなことを言う友人は、どこか小動物を彷彿とさせる。なまえは彼女の動作に思わず口元を綻ばせながらそうだね、とうなずいて同意した。
「あ、ねぇ、なまえー」
「ん? なあに?」
 セミロングの髪を揺らしてなまえのことを呼んだ友人を見ると、彼女はくるくると割り箸の先で空中に円を描いている。
「これ食べ終わったらもう一周見てから帰んない?」
「うん、そうしよ。このまま帰るのもちょっと物足りないしね」
「やった、ありがと!」
 はしゃぐ友人を横目になまえは腕時計を見た。気付けばもう7時半を回っている。楽しい時間は過ぎるのが早いな、となまえは他人事のように思った。
 熱気であふれた会場を一通りめぐり、行きに待ち合わせた駅とは別の駅から帰るという友人と屋台のある通りで手を振り合って別れた。なまえはゆったりとした足取りで歩き出す。祭り独特の雰囲気が楽しかったのはもちろんだが、クラスメイトや他クラスの友人と偶然会って話せたことも楽しかった。
 ぬるい風がなまえの頬に当たる。
 空腹は満たされていたが無性に冷たいものが食べたくなり、なまえはコンビニの前を通りながら自宅の最寄り駅でここと同じところに寄ろうか、と考えた。するとそのとき、通り過ぎようとしていたそのコンビニをふと見ると、見知ったクラスメイトと目が合った。
「あ」
 思わず漏れた声はガラス越しでは聞こえないはずだが唇の動きや表情でなまえが驚いていることが伝わったのだろう、相手はその口元に小さく笑みの形をつくる。
 なまえが軽く手を振ると、その影がコンビニから出てきた。
「なんか、荒船くんと会うたびびっくりしてる気がするんだけど」
「みょうじとは予想外なところで会うな」
 互いに苦笑交じりで言葉を交わすと、不意になまえがコンビニの中へ視線を移す。
「……あの日人たち、荒船くんの知り合い?」
 数人がちらちらとなまえと荒船のことを窺っていたためなまえがそう訊くと、荒船はああ、と肯定して軽くそちらへ視線をやる。
「同じ隊の奴ら」
「そうなんだ。今日も任務入ってたの?」
「ああ」
 聞くと、荒船たちは防衛任務を終えてから祭りに寄ったらしいが、祭りで食べ足りないとひとりが言い出したため軽く食べられるものを買おうということでコンビニに来ていたらしい。
「仲良いんだね」
「まぁ、付き合い長いし歳も近いからな」
「そうなんだ?」
「同い年二人と一つ下だからな」
 なるほど、となまえが納得するようにうなずくと、沈黙が落ちた。
「……じゃあ、私もう行くね。アイス買って帰らないと」
「なんだよそれ」
 荒船が帽子のつばを引き下げながら口元だけで笑う。
「フランボワーズのジェラート。おいしいの」
「うまそうだな」
「でしょ? じゃあ、またね」
「ああ、じゃあな」
 なまえが控えめに手を振ると、荒船は軽く手を上げてそれに応じた。なまえはガラス越しに目が合った3人に会釈をし、もう一度荒船に手を振ってからその場を去る。
 定期を取り出して改札を抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗って揺られながらなまえは、そういえば荒船の私服を見るのは初めてだった、と思い出した。人が少ない電車は涼しく、徐々になまえの体温を奪っていく。なまえは冷えてきた二の腕を抱えるように腕を組んだ。
 ふと車窓から外へ視線を向ければ、すっかりと日の落ちた空が町の明かりを映えさせている。なまえは窓に額をつけ遠くなっていく景色をぼんやりと見つめながら、夏特有のぬるい風や雲のない青い空のことを思った。