ハデスは不貞腐れながら、控え室で座っていた。

「チッ……土壇場で怖気づきやがって」

 あの時、少女は闇ではなく消滅を受け入れていた。闇を求めきれない、光を捨て切れない、覚悟の足りない半端者だったということだ。妙な邪魔が入ったところで観賞をやめて戻ってきたが、決勝戦も始まらず、退屈な時間が流れていた。

「…………フン。臆病なガキなんてどうでもいい。あいつさえ闇に堕ちればな」

 離れた場所で、逆立ちの腕立てをしているテラを見る。あれほどの才能の持ち主なら、闇に染め上げたらさぞ上等の駒になるだろう。

「ん?」

 テラの後ろを、何かが素早く駆け抜けて自分の側にやってきた。ひんやりとした空気を漂わせるそれは、本来ならば自分の十倍は大きいはずのアイスコロッソス。なぜか、自分の十分の一ほどに縮んでいた。

「おまえ、その格好はどうした? 娘と男を始末したら冥界に戻れと言っただろう」

 訊ねると、アイスコロッソス──いや、ミニアイスコロッソスがピィピィ鳴いた。

「ふぅん、そうか……負けただとっ!?」

 炎の髪が紅蓮に猛る。出来損ないの弱虫に、このアイスコロッソスが負けたというのか。

「こうなったら、俺様が直接──」
「どうかしたのか?」
「──!」

 テラが話しかけてきたので、慌ててミニアイスコロッソスを服に隠す。この男に余計なことを知られては面倒だ。

「なんでもない。おまえは決勝戦に向けてトレーニングの続きをしていろ」
「それなんだが、決勝戦はいつになったら始まるんだ? それに、外が随分騒がしい気がするんだが……」
「あー……決勝戦は特別だからな。主催者側でいろいろ準備があるんだろう。それに、ここが煩いのはいつものことだ」

 適当に答えると、テラは怪しむような顔をしながらも「そうか」と引き下った。──単純な性格で助かったが、それだけに厄介なことになりかねない。気をつけなければ。
 ハデスは足でミニアイスコロッソスを突っつきながら、渋い顔をした。





★ ★ ★





 柔らかで、いい気持ち。温かくて、このままずっと眠っていたくなる。

「おーい。ヴェン、聞こえるかい?」

 近く、遠い場所から誰かが話しかけてくる。せっかく良い気分なのだから、もう少し放っておいて欲しい。

「だいじょうぶかな?」
「呼吸は安定しているし、顔色もいいから……じきに目を覚ますと思う」
「そうか、よかった」
「ハーク。ここで寝かせるのはかわいそうだから、コロシアムまで運んでくれる?」
「もちろん。……ヴェンったら、幸せそうな顔してるなぁ」
「うっ──」

 背に回ってきた腕の感覚に、ようやくまどろみから目を覚ました。飛び込んできたのはフィリアとヘラクレスの顔。

「ヴェン! 気がついたんだね」

 ヘラクレスが眩しく笑う。どうやらフィリアの膝の上に頭を置いて寝ていたらしい。慌てて上体を起こすと、いきなり起き上がったせいか軽い眩暈に襲われる。

「ヴェン、無理しないで」
「へ、平気……」

 心配そうに声をかけてくるフィリアには悪いが、ぬくもりが思い出されて照れくさい。そもそも、どうしてこんな状態に?

「?……俺、どうしたんだ?」

 確か、ヘラクレスとアンヴァースを倒していて──それから?
 記憶を探っていると、ヘラクレスが立ち上がり眉をハの字にした。

「覚えてないの? 僕とスイングスラッシュをしたあとに倒れたんだ」
「スイングスラッシュ?……あぁ」

 回されて、放られたアレ。

「残りのモンスターも、全部倒したから安心してくれ」
「……ハークが来てくれて助かったよ。……けど」

 立ち上がって下を向く。まっすぐにヘラクレスに顔を見られなかった。

「……試合、棄権させてごめん」
「どうして謝るんだよ。僕が決めたことなんだ」
「でも──」
「それよりも。ほら」

 強めに促されて、フィリアの方へ向かされる。フィリアもちょうど立ち上がったらしく、スカートの埃を払ってこちらを見た。

「フィリア」
「ヴェン」

 同時にお互いを呼ぶ。あ、と驚くのすら一緒だった。

「今度は、私から話してもいい?」
「うん」

 緊張しながら承諾すると、フィリアは小さな深呼吸を何度か繰り返し、改めてこちらを見た。

「私ね、これ以上ヴェンに甘えたくなかった」

 フィリアの視線が、微かに右に逸れる。

「旅をしてきて、ヴェンはどんどん強くなってる。だから、私もがんばらなくちゃって思って……けど……」

 ぽつぽつ言いながら、フィリアは俯いてゆく。

「自分の都合ばかり考えて、押し付けて……ヴェンの気持ちを考えてなかった……ごめんなさい」

 言い終えると同時に、フィリアはまるで叱られるの子どものように強く目を瞑った。
──本当に悪いと思っているが、まだ言えないことがある、というところか。クセは、教えても出てしまうものらしい。
 一度、黙っているヘラクレスを顔を見合わせた。苦笑しているのは、きっと自分も同じだろう。

「フィリア。目、開けて」
「……」

 おそるおそるフィリアの目が開かれる。ちゃんと視線が合ったのを確認してから続きを言った。

「謝るのは、俺も同じだ。俺も自分の都合ばっかり考えて、フィリアがどう感じてるのか気付いてあげられていなかった」
「そんな、ヴェンは悪くない。私が勝手に──」
「俺に秘密にしてることは、まだ言えない?」
「あ……」

 左腕を押さえたフィリアは、無言の肯定を返す。期待があった分、その答えに気落ちするのは隠せなかった。

「俺は、フィリアにもっと頼ってほしいんだ。辛いこととか、悩んでることとかあるのなら、話してほしい」
「ヴェン……」
「そりゃあ、テラやアクアに比べたら、頼りないかもしれないけれど──」
「ちがっ、そういう理由で言えないんじゃなくて……これは、自分で解決しようって決めたの。だから、今は、まだ……」
――――言えない、かぁ」

 はぁ、とため息が出る。大人しいようで頑固なのは、昔からちっとも変わらない。

「…………嫌いになった……?」

 しゅん、と涙目で訊ねてくるフィリアがかわいいと思う、己に呆れる。なんだかんだ言いながらも、結局彼女に甘かったマスター・エラクゥスの気持ちが分かる気がした。

「嫌いになんてなるわけないだろ。……その時がきたら、ちゃんと教えてくれるって約束する?」
「……うんっ!」

 納得はしていない──けれど、今はこれでいい。これからフィリアと離れないように行動すれば、きっと分かるはずだから。
 満面の笑みで頷くフィリア。自分の一番大好きな顔だ。随分と久しぶりに見た気がした。

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