今日は珍しく修行が休みだった。理由は分からないが、エラクゥスがそう言ったのでそうなった。
のんびりと流れる午後の時間。フィリアは自室の本棚を整理していた。
「懐かしいなぁ……」
魔法の本で埋め尽くされた本棚の中、青い表紙の本を見つけ指先で引き抜いた。数年前に比べて多少色褪せてしまっているが、挿絵は未だ綺麗なままだ。
本をしばらく眺めていると部屋のドアがノックされた。ヴェントゥスだった。
「ヴェン。入っていいよ」
「フィリア、今……あ、その本」
ヴェントゥスは部屋に入るなり、自分の持っていた本を見て言葉を止めた。どうやらヴェントゥスもこの本のことを覚えていてくれたようだ。
「“人魚姫”だよ。懐かしいでしょ?」
「ああ。でも、童話は全部書庫に持っていったんじゃなかったのか?」
「うん。だけど、これはアクアからもらった本だから」
アクアから譲り受けた本はこれ一冊。エラクゥスからもらった本はさすがに多く書庫に移すしかなかったが、そちらもお気に入りの一冊だけは部屋にある。
「そっか。俺、その話途中までしか覚えてないや。最後はいったいどうなるんだ?」
「ヴェンはどのあたりまで覚えてる?」
「確か……人魚姫が魔法で人間になるところまで」
せっかくだし、久しぶりに一緒に読むのも楽しいかもしれない。
部屋の入り口に立たせておくのも悪いので、ベッドに座ってその隣をヴェントゥスに勧めた。
ヴェントゥスが腰かけたあと、二人の間に本を置いてページを捲る。女性がひとり海の前で佇む挿絵で指を止めた。女性の頭上にはぼんやりとした月が浮かんでいる。
「人魚姫は人間の王子に恋をして、魔女に頼んで声と引き換えに数日だけ人間にしてもらったのだけれど……王子は人魚姫じゃなくて隣国の姫を愛してしまうの」
「えっ、それじゃあ人魚姫はどうなっちゃうんだ?」
「……人魚が人間でいられる最後の夜。ことを知った人魚姫の姉たちが魔女と取引をして、全員の髪を代償に手に入れた一振りのナイフを人魚姫に手渡すの」
ページを一枚進めると、銀色に光るナイフの挿絵が現れる。
「『このナイフで王子を刺せば、あなたは人魚に戻れ助かるだろう。刺さなければ、契約通り泡となって消えてしまう』」
「そんな、片方しか助からないのか?」
「うん……」
自分の命と相手の命。どちらを選んでも二人は絶対に結ばれない。
「人魚姫はどうしたんだ?」
フィリアは本を閉じた。
「……王子に気持ちを伝えないまま、海の泡になって消えちゃった」
「そうか……」
少しの沈黙。破ったのはフィリアだった。
「……ねぇ、もし自分が人魚姫の立場だったとしたら。ヴェンならどうする?」
それは、ふと思ったこと。なぞなぞ遊びと同じで特に深い意味はなかった。
「俺だったら?…………うーん……」
ヴェントゥスは腕を組んで考えている。
自分が生き永らえるためだけに愛する者の命を奪うか、全てを捨ててまで伝えたかった想いを秘めたまま相手の側から消え去るか──。
前者はあまりにも身勝手だし、後者はあまりにも報われない。
人魚姫はこの二つの選択肢しかないと考えていたが、本当はあといくつの選択があったのだろう。
「……俺も、人魚姫と同じかな」
「ヴェンも?」
「うん。自分のために大切な人を傷つけるなんて絶対嫌だ」
「………………」
「フィリアだったらどうするんだ?」
「えっ、わ、私……っ!?」
聞き返されて妙に慌ててしまう。もし自分だったらどうするだろう? 不思議なことに、答えは考えつく前に勝手に口から飛び出ていた。
「私なら王子に自分の想いを伝える」
「えっ?」
ヴェントゥスが意外そうな表情をした。言った自分も驚いた。
「あ…………えっと、結ばれないってわかっていても、やっぱり気持ちは伝えたいかもって思って……その、それができたら、だけど……」
そんなことができていたら人魚姫だって王子に告白していたはずだ──と思う。どうしてこんな答えを言ったのだろう……?
混乱していると、ヴェントゥスが笑いだした。
「フィリア、顔が真っ赤だぞ」
「かっ、からかわないでよ、ヴェン!」
本で熱をもった顔を隠すと、ヴェントゥスがごめんごめんと軽く謝ってきた。
「そうだ、また早撃ちの競争しようよ。ファイアを先に10連発できた方が勝ちってやつ」
「うん、いいよ」
本を棚に戻して部屋を出る。
「この前は負けたけど、今日は俺が勝つからな!」
「私だって、負けないよ!」
フィリアはヴェントゥスと共に山道へと駆け出した。
★ ★ ★
世界に、密やかに魔物たちをばら撒いていく。
地味で面倒。しかし、確かに光の世界を侵す快感。
ヴァニタスは闇の回廊を進んでいた。もうこの作業には飽きていたが、必要なときに十分な効果を発揮させるためにもしっかりと行っておかなければならない。
闇の回廊が終わりいつもの荒野にたどり着く。ゼアノートと落ち合う約束だったのだが、ゼアノートはまだ着いていないようだ。
近くの岩に寄りかかり、ヴァニタスは意識をヴェントゥスへと集中する。
『愛する者の命と自分の命、どちらかを選ばなければならない場合』
フィリアからの質問。いつも能天気に遊んでいるヴェントゥスたちにしては珍しい会話だった。いつか途中で止まっていた愚かで哀れな人魚の話の影響か。
『もし、あなたならどうする?』
ヴェントゥスは「相手を生かす」と答えていた──下らない。
望みは人魚と王子が結ばれること。それ以外の答えは全て満たさることのない自己欺瞞と自己犠牲。
望みを満たすためには人魚は誰を消すべきか? 王子? 自分? それとも契約を交わした魔女?──どれも違う。自分の答えは“隣国の姫”。邪魔な者など全て残さず消し去ってしまえばいい。
「待たせたな」
ゼアノートが現れたので、すぐに意識を己に戻した。首尾はどうか訊かれたので順調だと答えておく。
「マスター。ひとつ教えてほしい」
「なんだ?」
「あいつ……フィリアは、キーブレードを使えないのにどうしてあの世界に住んでいるんだ?」
「そのことか」と答えながら、ゼアノートの目がわずかばかり細くなった。
「あのエラクゥスが、何の理由もなく他者をあの地に住まわせるはずがない」
ゼアノートがくつくつと哂う。
「卵は温めなければ孵らない……エラクゥスは孵化を恐れている。愚かなものだ。卵は守るが、雛になったら消すつもりらしい」
予想外の返答に思わず言葉を失った。
自分の理解が間違っていなければ、エラクゥスはフィリアを消すその日まで監視していることになる……実の親のように慕っている者にそんな考えを持たれていると知ったら、フィリアはいったいどうするだろうか。
「卵には用はないが雛ならば私の計画の役に立つ。幸いヴェントゥスとの仲も良い……これを利用しない手はない」
「あいつも利用するのか?」
訊いた途端、ゼアノートがこちらを見つめてきた。
「どうした? ヴェントゥスを通じてあの娘に情でも持ったか?」
「……そんなものない」
そう答えたものの、ゼアノートの目を見れなかった。
「安心しろ。消しはしない……だが、協力はしてもらおう」
自分の気持ちがゼアノートに知られたことを確信し、ヴァニタスは奥歯を噛みしめた。