二人きりになって、サイクスが私の方へ振り向いた。
「何の用だ」
「報告書について聞きたいことがあるの。でも、ここじゃあ話しづらいから、中に入れてもらってもいい?」
「かまわんが……」
いぶかしげな顔をしつつも、彼は部屋の扉を開き、中へ招いてくれた。自ら望んだ展開なのに、少し躊躇う。部屋の間取りも、家具も、私の部屋のものと同じだけれど、絶対的に違うもの――サイクスの匂いがする。
「適当に座れ」
「……お邪魔します」
大人の男の人、しかも気になる人の部屋で二人きり。意識しない方が無理だ。
サイクスがひとつきりの椅子に腰掛けたので、ベッドに座らせてもらうことになった。いつもサイクスが寝ているベッドに座っているのだと考えて、顔が熱くなるのが嫌でもわかる。
サイクスが私の手にあったコーヒーを気にしたので、慌てて差し出した。
「コーヒー、どう? まだ冷めてないよ」
「二つとも、ブラックのようだが?」
「私もブラックで飲めるようになったの」
えへんと胸を張る私の自慢に何も反応も返さずに、サイクスがコーヒーを受け取りひとくち飲んだ。表情から、味にどんな感想をもったのかさっぱり分からない。
サイクスがカップを持ったまま、まっすぐ私に向き直る。
「それで、何が聞きたいんだ?」
「あぁ、それは、その……」
見つめられていると思うと頭の中は真っ白になり、なかなか意味のある言葉が出てこない。落ち着くため、私もコーヒーに口をつけた。苦ッ。
はぁ、と呼吸を整える。
「私ね、サイクスが満足できるような報告書が書きたいの」
「俺が、満足する……?」
「サイクスに必要な情報を、ちゃんと届けられるようになりたいんだ」
すると、サイクスは私が今日提出した報告書を取り出した。ところどころ赤ペンで丸や文字が書きこまれている。ちゃんと見てくれていて、彼の役にたっていることが分かり、嬉しかった。
「以前のようないい加減さに比べれば、近頃のおまえの報告はずいぶんまともなものになった。これくらいの内容ならば、何も問題はない」
「よかったぁ。けど、他に『こういうところがあったらもっといい』とか、ない?」
「なぜ、そこまでこだわる?」
「だって、私、サイクスに喜んでほしいんだもの」
サイクスが瞳を凝らすようこっちを見てくるので、私もじっと彼を見つめた。彼の視線を独占できることは嬉しかったけれど、整った顔立ちにはまったく表情の色がない。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、サイクスがそっけなく視線を逸らした。
「おまえは、勘違いをしているようだ」
「……?」
サイクスは報告書を机の上に戻しながら言った。
「俺たちには心がない。おまえがどんな報告書を提出しようが俺が満足することなどないし、喜ぶ≠ネども絶対にない」
「…………」
「ついでに言えば、このところ、おまえの格好は妙に浮ついていて目に余る。余計なコトに気を回す暇があるのなら、キングダムハーツの完成に集中しろ」
ガラン、ゴロンッとドラム缶のような音をたてて、サイクスの吐き捨てた単語が頭の中を転がってゆく。鋭い痛みによって開いた胸の中に、すきま風が吹いたような感じがして「あは」と乾いた笑みがこぼれた。
なんだ。大人って、みんなこういうのが好きなんだと思ったのに。
全部、余計なコト――だって。彼にとって無駄でしかないことを、自分はあんなに頑張っていたのか。目が熱くなり、鼻の奥が鋭く傷んだけれど、歯を噛み締めて耐えた。その衝動に従ってしまったら、ほんとうに無意味だと認めてしまうような気がしたからだ。
短い沈黙のあと、サイクスが続けた。
「用は済んだか? ならば部屋に戻れ。明日の任務に――」
「サイクス」
呼ぶとチラリと横目で見やられ、思わず胸元に手を添える。
内側から圧迫されるような鈍痛と、息苦しさがあった。サイクスの言動ひとつひとつに、いちいち心臓を絞られてしまうような感覚が頻発し、そこから抜け出す術を知らない、分からない。
「私ね、シーソルトアイスを毎日食べたいって思うように、サイクスの笑顔をいつも見たいって思ってる。暇さえあれば、頭が勝手にサイクスのことを考えちゃうの。サイクスのためになるのなら、どんな苦労だって平気。それくらい、サイクスのことが好き」
「…………」
「サイクスのこと、もっと知りたいの。教えて。どうしたら、私、もっとあなたに近づける?」
サイクスは目をしばし見開いたあと、眉を寄せ、口のへの字にしながらゆっくりと床に片膝をついた。いつもと逆で、私がサイクスを見下ろすかたちとなったことが新鮮だった。彼の顔の傷が深いということ、この角度からだとよく分かる。
「そんな感情は、すべて記憶の真似事だ。真実ではない」
「なんで、そう簡単に決めつけることができるの?」
「言っただろう。俺たちがノーバディだからだ。誰かを愛すことなどない」
いいかげんにしろ、と切り捨てるような言い方に、思わず口を噤む。
「ただの幻影……そのようなものに振り回されても、虚しいだけだ」
無感情な声に戻り、無機質な瞳で、淡々と彼は言った。
心がないから、この想いは幻影で、真似事で、真実じゃない?
どうしても溶かすことのできない、納得できないところがあり、理解するのに時間がかかった。カップを落とし、雫が靴に飛び散ったことなど全く気にならないほどに考えてみるも、やっぱり同意する言葉は言えなかった。
「確かに、頑張ってきたことは失敗だったみたいだけど。私、虚しくなんてなかった」
サイクスの反応を期待するたびに、任務へ励む力が湧いた。希望が叶うともっと努力しようという気持ちになれた。自分が変化してゆくことが楽しく、すべてが輝いて見えて、充実していた。
「おまえ、俺の話を理解するつもりがあるのか」
視線が蔑むものに変わる。彼こそ、こちらの話を理解しようともしていないくせに。ノーバディだから、心がないからありえないと、すべての答えを執拗にそこへ着地させる。
それとも、虚しいと思うのはすでに経験しているから――なのだろうか? ひょっとして、と思い浮かんだのは赤い髪。このところ、ずっと彼を見つめていたからこそ気づいた心当たり。
「サイクスは虚しいの?」
「なに……?」
「だって、誰かを想うことを虚しいって決めつけているんだもの。だから、サイクスも誰かをむ――――」
いきなり口を片手で塞がれ、勢いに負けて押し倒された。
背は柔らかい感触で痛くはなかったものの、目の前の剣呑な顔に「言い過ぎたかな」とぼんやり思う。頬にかかってくる少し青い髪は見た目よりさらさらしていて、くすぐったい。
「……知った風な口を聞くな」
苛烈に輝く瞳が怖いほど綺麗で、引き込まれそうだ。
「おまえに俺の何がわかる」
知りたいから、こうして水面に石を投げ入れる真似をしているのに。
頬ごと口を押さえていた手が、ゆっくりと離された。
「サイクス……」
「くだらん話は終いだ。出て行け」
低い囁きを残して、サイクスはそれきり私から離れ背を向けた。私は落としたカップもそのままに、部屋から出てゆくしかなかった。