序章[7]
はっとして、目の前には例の石像があった。
長い間沈黙してしまったが、聖堂には特別ざわめきもなく、祠の横の細いろうそくの長さもたいして変わってはいなかった。どうやら、たいして時間は経っていないらしい。少しの昼寝で見る夢が実際に眠った時間よりもやけに長く感じるのと同じような感じかもしれない。とりあえず、神聖な儀式の最中に寝こけた阿呆として村の歴史に悪名を残すことはなさそうでほっとした。
それにしても、あれは何の夢だったんだろう。夢を見る前に聞こえた声も謎だし、いや、そもそもそこからが夢だったのかもしれない。どこからが夢だったのか、それもよくわからない。
……もう少し考えていたかったけれど、思考を断ち切るように甲高い金属音がした。おそらく神官様の合図だろう。つまり、儀式の工程二つ目の終了――最後の仕上げを促す音だ。
これが最後の、一番大事なところだ。石像に貼られた白い札を、貼り換える。取り換えるべき新しい札は祠の傍にあらかじめ置かれていた。まだ浄化のために使ったらしい香木の匂いがするそれを手に取って、石像をまっすぐ見つめる。後ろの筋肉も同じように札を取る気配がした。
古い札は見事に石像のど真ん中に貼られていて、それを恨めしく思う。ほんとに誰だよ前任者。なんでこんなところに貼りやがった。ご神体に触れてはならなくて、札がない状態にしてはならなくて、新しい札を貼って古い札を剥がせなんていうただでさえ超難易度の試練がさらに高難易度になっている気がする。新しい札を貼ろうにも貼りにくいったらない。
なんとか石像の左斜め横という微妙な位置に札を据え付ける。
不思議なことに、糊もついていないのにそれは石像にぴたりと吸い付いた。神官様からそう聞いた時は冗談だろと思ったけれど、本当だったらしい。これも精霊の魔法というやつなのか、それとも女神様の神秘なのか、もっと別の何かなのか。
新しい札を貼れば、次は古い札の撤去だ。
静かに、ご神体に触れないように、前の札に手をかける。これも真ん中にあるせいでとてもやりにくい。首筋を嫌な汗が伝うのを感じた。おかしいな、こんな事なんて練習のときは一度も無かったのに。それだけ張りぼてで出来た練習用の祠と本物は、違うって訳か。心の中でそっと「落ち着け、落ち着け……」と何度も唱え、息を整える。
失敗は許されない。ご神体に触れても、倒してもいけない。前の札がうっかりひっかかって外れてもいけない。
大きく息を吸って、札の端をつかんだ手を引いた。案外簡単に、札は石像から離れる。祠から左手へと視線を降ろすと、確かにそこには古い札が握られていた。
「……はぁ、良かった……」
僕は思わず小さく呟いていた。心底ほっとした。たぶんこんなに緊張する機会、この後の人生で二度とないだろうと思う。
それから、儀式の最中に喋ってしまったことに気付いて慌てて目だけで周りを確認する。いたって普通だった。たぶん、誰も僕のつぶやきには気づいていないはずだ。
それなら良かった――と安心しようとして、その瞬間強い衝撃を感じた。
どん、と誰かに背中を押されたような感覚。
いや、誰かに押されたのではなく、それは強い風のようだった。爆風、と言った方が正しいか。
そう――爆風だった。
僕はまた夢を見ているのだろうか。そうだと思いたかった。
轟音。黒煙。何かが焦げる様な音。
最初は何が起きたのか、誰も分からなかった。一拍おいて、その場の誰もが気付いた。混乱していて状況が呑み込めなくても、それでも、これは異常だ――危険だと。
「皆、逃げろ!」
最初に口を開いたのは村長だったらしかった。朝に広場で聞いたのと同じ、低い怒鳴り声が聖堂に響き渡る。それを皮切りに、あちこちから悲鳴が上がる。あっという間に聖堂はパニックになった。
聖堂から我先にと逃げ出す人々の誰かが、「儀式はどうなった!」と叫んだのが聞こえた。
そうだ――儀式はどうなった?僕は成功したはずだ。確かに祠の扉を閉めるという儀式の終わりには至っていないが、一番大事な部分には成功したはずだ。そこまで考えて、はっと気がついた。
僕の祠じゃないなら、もう片割れの祠は?その祠の役を任ぜられていたのは誰だ?
そう、奴だ。嫌な予感がして、僕は後ろを振り向く。
僕と反対側の祠は見事なまでに粉々だった。まるで、中から何かが飛び出した後のように。炎が唸るように不気味な音を立てながら燃え盛っている。その前で、筋肉がへたり込んでいる。
「お前、まさか――」
「ラシア!ボドゴリッツァ!儀式はとりあえずもういい、早く外に出ろ!」
僕が言葉を続ける前に、聖堂の入口から村長の声が聞こえる。気が付けばもうその場の全員が避難しているようだった――僕と奴を除いて。
確かにもうこれは儀式どころじゃない。僕はそれでもとりあえず自分の前の祠の扉だけは閉め、それから立ち上がって、いまだ呆然としているらしい筋肉を蹴り飛ばした。
「ほら、行くぞ!」
「あ、ああ……」
奴の方の祠は閉めるどころじゃなさそうだ。まず祠の原型がない。
無理やり筋肉の腕を引き、立たせる。無駄に重い。引きずることはできなさそうなので、自分で動いてもらうしかない。
早く行け、と急かしながら僕も走り出す。聖堂の入口が近づくのと同時に、後ろで天井が落ちるような大きな音がする。振り向いたら心が折れる気がした。おそらく村の同年代で最も遅い足を必死で動かし、聖堂の外へ走り抜けた。
建物の外の空は、変な色をしていた。青空なのだけれど、変に褪せたような、妙な色。西の方から、明らかに不自然な速さで黒い雲が立ち上ってくる。
「……もしかして、封印が……」
誰かのうめくような声が聞こえた。最後までは言い切れなかったようだけれど。でも、誰も恐ろしくて言い切れなくても、誰もが思っていた。
神話の中だけの存在で、普段はその存在を微塵も感じさせなくて、もしかしたら存在しないんじゃないかって、皆が思っていたそれがもし存在してしかも目覚めたのなら、それこそこんな状況になるのでは――と。
双子女神の封印が解けたのでは、と。
まさしく世界の終わりのようなざわめきの中で、僕は頭を抱えた。
ああ、本当に――ボドゴリッツァ=リータという男と関わると、ろくなことがない。
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あと1センチ