chapter:おちこぼれ妖狐。 いったいこの美味しそうな匂いは何だろうか。 真尋は鼻孔を膨らませ、匂いを嗅ぐと、何やら嗅いだことのない甘い匂いがする。 匂いに誘われるまま歩いて行けば、立派な門構えをした一軒の大きな屋敷に辿り着いた。 この屋敷に果たして人間は何人住んでいるのだろう。 なにせここは人間の世界で、自分が生まれ育った里ではない。 真尋は細心の注意をはらい、動かなければならないと自分に言い聞かせるものの、けれど今は腹が空いている。警戒心も何もあったものではない。 それに真尋は妖狐族の中では落ちこぼれではあるものの、並みの人間よりはずっと力があるのはたしかだ。 真尋は空腹のあまり口の中いっぱいに溜まった唾を飲み込むと、それを合図にして塀をするりと跳び越えた。 庭に降り立ち、植えられている植物の影に隠れながら周囲の様子を窺う。 すると縁側にひとりの青年が座っているのが見えた。年は二十七歳ほどだろうか。 今の時勢には珍しく、涼しげな白の狩衣をふんわりと身に纏(まと)っている。彼は柱の一本に背を預け、座していた。 身長は座っているから良くはわからないが、百八十以上はあるだろう。座高が高い。 ほっそりとした体型で、襟足まで届くか届かないかくらいの少し長めの黒髪。高い鼻梁の下には、薄い唇が微かに笑みを浮かべている。 一見すると女のように見えるが、肩幅がかっしりしていて広い。彼が男だということはすぐにわかった。 闇の中にぽっかりと浮かぶ満月を見上げている二重の細い目はどこか悲しげで、その姿を見ていると胸が苦しくなる。 真尋は赤の他人に――しかも人間に対してこのような感情を抱くのは初めてで、戸惑ってしまった。 しかしながら、真尋は腹が減っている。その空腹が現実へと引き寄せてくれた。 真尋はふたたび鳴りそうになる腹を押さえ、おかしな気分をはね除けた。 |