(三) 夜が更ける頃。 今日も、『clam's bar』は開店する。 「有〜、また来てるぞ? お前の追っかけ」 「……はあ」 カウンター内でシェイカーを振っている有に、いつもの如く、先輩バーテンダーが茶化してくる。 有は、何とも煮え切らない反応を見せるものの、それでも頷(うなず)いた。 「なんだよ、今日は否定しないのか? まさか、おまっ!!」 茶化そうとしていた先輩バーテンダーは、意表を突かれたようで、逆に驚かれた。 「そうなんだよ、昨日、ちょっとしたハプニングがあって、彼と付き合うことになったんだよ。な〜、有」 諒陽(あさひ)は口角を上げ、有の肩に腕を乗せると、楽しそうにケタケタと笑っている。 「……まあ、近々別れることになると思いますけど……」 「はあ?」 ぼそりと呟いた言葉に、またもや先輩バーテンダーは首を傾げた。 意味が分からないのも無理はない。彼は、移り気が多い英の性格を知らないのだから――。 英は店内にやって来たかと思うと、すぐに有がいるカウンターテーブルに座った。 どうやら、自分との恋はまだ有効らしい。 内心ほっと肩の力を落とすものの、それでも英に雰囲気を気取られてはならない。 だから有は、英が傍にやって来ても気にもしないという様子でシェイカーを振りながら、新たにやって来た客に会釈する。 「悪いが、今日は先に帰ってくれ」 薄い唇から発せられる言葉は、存外ぶっきらぼうな言い方になった。 「えっ? なんでっ!? 恋人でしょう?」 有の目の前に座った英は大きな目をさらにこじ開け、訊(たず)ねた。 英の頬が徐々に膨れ、眉尻がつり上がっていく。 その表情さえも可愛らしいと思うのは、惚れた弱みだ。 「昨日のようなことになったら大変だから。それとこれ」 有はベストの内ポケットから、何の飾り気もない、シンプルな鍵を手渡した。 これは今朝、昨日のようなことがあっては堪(たま)らないからと、有が慌てて部屋の合い鍵を作ってもらったものだ。 しかし、英は移り気が多い。果たしてこの動作が水の泡にならなければ良いとは思いつつ、出勤したのだが、どうやらその心配もまだしなくていいらしい。 そんな有の思いも知らずに、先ほどのふくれっ面は見事に消し去り、今は満面の笑みを浮かべている。 「くれるの?」 「ああ、俺の部屋で待っていてくれ」 有から合い鍵を受け取った英は上機嫌で大きく頷き、バーを出た。 ――その日の仕事場では、やはり諒陽には含み笑いを浮かべられたものの、他の先輩たちや同僚からの、英との仲に関する質問攻めをなんとか無事に切り抜け、仕事から帰路を後にした。 有は両親とは離れて一人暮らしをしている。だからまず、帰宅すると、廊下の電気を点けるところだが、今日は部屋が明るい。 英はまだここにいるようだ。 家中の明かりが煌々と点いていた。 「ただ今」 ベッドやらテレビがある、ただひとつの寝室である六畳の部屋を覗き、挨拶をする。 テレビを見ながらぼうっとしていた英は、有の姿を見るなり駆け寄って、またすぐに有を欲した。 ――ベッドの上で艶めく柔肌が、月光の淡い光に照らされる。 なんとも言えない色香が、英にはある。有はたまらず、英を引き寄せた。 滑らかな肌が気持ち良い。 「あのね、実は僕、ね?」 英は有を見上げ、とても言いにくそうにしている。普段、はっきり話す彼にしては珍しい。 しかし、彼がこれから話す内容を、有は知っていた。 『別れよう』 英はそう言うに違いない。 有は、別れ話を聞きたくなかった。だから、赤い唇を塞いで、また英を抱いた。 英は大学生だ。たしか、明日は一限目から授業があると言っていた。 それならば、今夜は英がひと言も別れ話など言えないように仕向ければ良い。 有はその夜、英が意識を手放すまで、ベッドの上で延々と鳴かせ続けた。 ――うっすらと目を開けると、朝日がまぶしい。 有の隣で、英がもそりと動いたのを感じ取った。 どうやら、大学の刻限が近づいているらしい。 「有……」 赤い唇が有を呼ぶ。 しかし、有は寝たふりを決め込んで、彼からの言葉を拒絶した。 玄関のドアが閉まる音と同時に、鍵が掛けられる鈍い金属音が虚しく響く。英は有と話すのを諦め、大学に行く支度をしに、自宅に戻ったのだろう。 有は、ほうっと長いため息をついた。 頭上に置いてある目覚まし時計を見れば、針は六時を指している。 「…………」 英との別れはなんとか切り抜けられた。 しかし、こうして逃げたとしても、一時凌ぎにしかならない。 いずれ、別れ話は近いうちに必ず持ちかけられる。 だったら、自分から別れを告げた方が、失恋という胸の痛みも少しくらいはまだ救われるだろうか。 有は両の手を強く握りしめ、今夜も来るであろう、英との別れを決意した。