chapter:女装して愛の逃避行 side:絃 「先生、書けましたか? 失礼しますよ? って、しまったあああっ! 先生がいない。まさかまた逃げたのかっ! 先生!! 乙矢(おとや)せんせえええええええぃっ!!」 広い屋敷で悲壮感漂う声を張り上げ、俺――雪見 絃(ゆきみ いと)もとい、乙矢の名前を呼ぶ彼は、俺の担当編集者だ。 ……で、巻き髪のウィッグを付け、桃色のワンピースを着た俺は何をしているのかっていうと――そんなの逢い引きに決まっている。 「よっ、と……」 所々にフリルがついた可愛い裾に気をつけながら、垣根を跳び越えた。 俺の趣味は女装。どこまでも追いかけてくる編集者に嫌気が差し、変装のつもりで外に繰り出したのがきっかけだ。 そりゃあね、俺は長い睫毛に二重の細い目。高い鼻。薄い唇といった、整った顔。それに身長だって百八十センチで、モデル並みの体型をしている。学生の頃は男女問わず、告白された経験もしばしだ。 しかしまさか、女装した俺が外へ出ても全く気付かれないのに驚いた。 行き交う人びとは誰も俺が男だと気付かず、うっとりした目で見つめてくるもんだから、楽しくなってやみつきになった。――はじめはね? でも、今は違う。趣味が義務になってしまった。 それというのも、俺の恋人、和歌 流星(わか りゅうせい)に関係がある。 事の発端は、趣味の女装で今のように編集者から逃げていたことから始まった。 編集者の目を盗み、無事に外へと出られた俺は、交差点で――彼、流星とぶつかった。 おそらく身長は百七十後半だろう。茶色の綺麗な髪に、犬のような人懐っこいタレ目。ほっそりとしているのに肩幅がある、まるでゴールデンレトリバーのような、大学生の彼。 俺よりも八歳年下のその彼に、俺は本気で一目惚れをしたんだ。 だが、いくら女装が趣味でも、男に興味なんてない。言い寄ってくる同性はいたものの、当然、男相手に恋心を抱いたことなんて、二十八年間。生まれてこの方今までに一度もない。 だが、彼は違う。流星は、俺が異性を想うような気持ちにさせた。 流星とは、それから何度も会うようになった。いつもの待ち合わせ場所の喫茶店で流星に告白され、俺は彼と付き合うことになった。 もちろん、女だと偽って――。 だが、それももう、終わらせようと思う。 何時までも俺が女だって思わせてこのままズルズル引きずってても、相手に俺を理解してくれなければ意味がない。 手放す気は、悪いけどない。 彼を抱いて、既成事実を作ってでも、一緒にいたいと思っている。 俺なしじゃいられない身体にして、うんと可愛がってやるんだ。 だが、それには色々と手順もあるし、もしかしたら、万が一にでも、流星は俺を拒まないかもしれない。 いや、違う。俺が男でも受け入れてほしいと願っているだけ。 身体ではなく、流星に、恋心をもって、本当の俺を見てほしいと願っているんだ。 ……たとえ、愚かな願いだとわかっていても。 編集者を撒き、流星を連れて一軒家の自宅に戻る。ジーンズにグレーのシャツという、ごくごく普通の普段着に着替えた俺は流星を居間に座らせ、ウィッグを取った。 あるのは襟足よりも少し短めの黒髪だ。 「えっ、うそ! 絃さん……?」 目が大きく開かれ、驚きを隠せないようだ。 「俺は、本当は男なんだ。女だと思っていた?」 コクンと頷く流星は、やっぱり目を見開いたままの状態だった。 「女じゃなきゃ嫌い? 俺とは付き合えない?」 本当は、こんなことを聞きたくない。正直、とても不安だ。俺を受け入れられなかったらと思うと、胸が苦しい。 逸らしそうになる目をなんとか堪え、驚きに満ちた流星の目を見ていると、彼はゆっくりと瞼を閉ざした。 「……嫌い。になれたら、今、こんなに悩んでません。惚れた弱みってやつでしょうか?」 流星は照れたように頬を赤らめ、にっこり笑った。 ――流星。 ああ、彼は本当に可愛い。 「流星」 手を伸ばし、彼を引き寄せると自らの唇を押しつけた。 「ん、ぅうううっ!?」 このまま。健康的な肉付きをした身体を押し倒したい。深い口づけを堪能していると――。 コンコン。 誰かが居間ドアをノックした。 ノックする相手はもう知っている。編集担当者だ。 ……チッ。 もう戻ってきたのかよ。 舌打ちをすると、熱を持ちはじめた流星から離れる。 「先生! もうっ、どこに行かれていたんですか!! 早く書いてください、原稿の締め切り、明日なんですよ?」 俺は下にいる流星を見下ろし、どっちを取ろうか迷っていると……。 「大丈夫です。俺、逃げませんから」 にっこり微笑む彼は天然なのか。可愛い。 「わかった、書くからお前出て行け」 「逃げたりは……」 「しない。だからこの部屋から出ろ。集中できん」 編集者を追い出すと、俺は流星を引き寄せ、抱き込む。 ああ、やっとまた二人きりになれた。 「あ、あの。打ちにくくありません?」 「平気。君がいると何故かすんなり書けるんだよ」 流星を膝の上に乗せたまま、俺は指を動かし、ひたすらキーボードを打ち付けた。 コレが終わったら、ご褒美をもらおうかな。 何よりも極上な、流星という美味しいご褒美を……。 **END** |