chapter:陰陽之書 其の壱 【大和の国より異形なものあらはる。※ホラー部門】 いつの頃からであったか。最近、この大和(今でいう奈良県)を中心に、奇怪な出来事が相次いで起こっていた。 丑の刻(今でいう午前一時から三時)、出かけの用が終わり、主人が店に帰る道すがら、家人の一人を連れて歩いていると、「あなや!」 若い女の悲鳴が真後ろから聞こえた。 何事かと、主人と家人が慌てて振り返ってみると、そこにはたれ(誰)もおらず、薄い月明かりに照らされた夜道があるばかりだった。 ――またある屋敷の主人は、やはり丑の刻。ふと尿意を感じ、目を覚ました。眠気もあったので、そのまま夜具にくるまり、眠ってしまおうかとも考えたが、どうにも我慢が出来なくなり、母屋から離れた厠へ向かう途中。男の子の童たち複数の笑い声を聞いた。 はて、かような刻限に童とは、奇妙よ。 薄闇ばかりが広がる周囲で目を凝らし、見やれば、けれどもやはりそこに姿はなく、ただ笑い声が聞こえるばかりだったという。翌朝、童の笑う声がした場所を確認すれば、そこには泥の付いた数人の草履の跡があった。 いずれも姿はなく、声ばかりが聞こえるのだ。害はなく、ただの悪戯かと、さして気にすることもなく、人びとは生活していた。 しかし、奇怪な出来事は、それだけでは留まらなかった。 時は同じくして、大和の国にある広い屋敷に、ひとりの陰陽師がいた。 年の頃なら二十五歳前後。名は、小野木 蒼(おのぎ あおい)。涼やかな双眸に、薄い唇。腰まである漆黒の髪は後ろに束ね、白の狩衣に身を包んで簀の子に座している。 彼は膝の上にある猫の頭を撫で、月が照らす薄闇を見つめていた。 膝の上に乗っているのは、猫にあらず。猫又という化け猫で、名は心(しん)という。 その猫、艶やかな毛並みの色は茶色で、耳の部分だけが黒い。一見すると普通の猫のように見えるが、尻尾はふたつに分かれている。 化け猫は本来、人の前に姿を現さず、人や物に化けて悪さをして人びとを困らせるのではあるが、彼だけは違った。 というのも、心は化け猫であるものの、化けるということが上手くできず、一族から排除されてしまったのだ。 そして路頭に迷っていたところで蒼と出会い、共に暮らしている。 「心、今から出かけるが、付いてくるか?」 心は、にゃあとひと鳴きすると、蒼の膝から下りた。すると、たちまち人の姿へと変化する。年の頃なら十五。年頃の男の子よりも大きな目に、顔の真ん中に乗っている小さな鼻。赤い唇はなんとも可愛らしい。 心は蒼と同じように腰まである長い髪をひとつに束ね、青の狩衣をまとっている少年になった。 しかし、やはりともいうべきか。人間に上手く化けることができておらず、頭には三角形のふたつの耳が生えている。 「どこに行くの?」 心は興味津々といった様子で訊(たず)ねれば、蒼はうっすらと笑みを浮かべた。 「少し頼まれごとをしていてね、牛車で少々遠出をするんだ」 「行くっ!!」 蒼が行くところなら、どこへでも。心は嬉しそうに大きく頷いた。 そういうことで牛車に揺られ、やって来たのは法隆寺。時の人、聖徳太子が建てたといわれているこの寺は、かの玄奘(げんじょう)法師が唐天竺(からてんじく)より、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)から尊い教えをいただき戻ってきた折、書き上げた教典が数多く存在している。 そしてこの法隆寺は恐ろしく広い。南大門を入ったところにある、西院伽藍(さいいんがらん)は五重塔や入母屋造の二重仏堂の金塔があり、それらを凸(とつ)字形で囲っている。東に鐘楼。西に経蔵(きょうぞう)が位置していた。また、南大門と主要建物との間にある中門は入母屋造の二重門で、四間の正面柱間の真中には柱が立っている。 蒼は中門までやって来ると、牛車から降りた。二重門の手前で待っていたのは、黒の袈裟を身にまとったひとりの僧侶だ。 彼は蒼にお辞儀をすると、そのまま中へと案内する。二階建ての経蔵だ。 赤みを帯びた黄色の袈裟を身に着けた僧侶がいた。その僧侶こそ、おそらくはこの法隆寺を任された師であろう。 彼は蒼と猫又の心を見据えた後、座敷に座るよう促した。供の僧侶を下がらせた後、口を開いた。 「お呼び立てして申し訳ありません。実は、この寺で少々不可思議な現象が相次いで起きておりまして、しかし、これを大事にするわけにもいかず、こうして貴方様におすがりいたしました」 そこまで言うと、僧侶は一度口を閉ざし、ふたたび開く。 「実は、この法隆寺に、穴が出没するのでございます」 僧侶いわく、穴は一週間前から出始めたという。何の前触れもなく突如として現れるその穴は米粒くらいの小さなものから、人ひとり分の大きなものまで、大きさは様々で、そうかと思えば、すぐに消え去るのだという。 決まって丑の刻に出現するため、早くに眠る小僧たちにはさしたる問題はないと、初めは特に気にも留めず、過ごしていたらしい。 しかし、穴の出現が頻繁に起こり、しかも深さを調べるため覗き見れば、この世の果てほどもあるのだという。これはさすがに落ちてはひとたまりもない。どうにかならないかと思い、相談したのだという。 果たして、聖徳太子が建てた霊験あらたかな寺で、あやかしたちは何かをしようと思うだろうか。 僧侶の話を聞きながら、蒼が邪念を探ってみても、何も出てこない。 「……何か隠し事がございますね?」 蒼が問えば、僧侶はひとつ唸る。言いにくいことでもあるようだ。 しばらくの後、沈黙が周囲を包み込むものの、僧侶は決意したように、重い口を開いた。 「やはり、隠せませぬか」 そう言うと、僧侶は懐から教典を取り出した。彼が差し出したのは、生前、玄奘法師が書き上げたひとつ、般若心経だ。 一見すると何ら変わりのない般若心経ではあるものの、ある部分、ところどころにひとつの文字が抜け落ちていた。 「こちらは?」 蒼が訊ねると、僧侶は頷いた。 「見てのとおりでございますれば。玄奘法師から授かりました教典の、『空』という文字が、忽然と消えてしまったのでございます。しかし、この法隆寺は帝より仰せつかりました重要な地。ましてや、この教典は玄奘法師が観世音菩薩より承りしもの。たれにも相談することができず、どうしたものかと窮しておりました」 「なるほど、そういうことですか」 蒼は頷いた後、何やら小さく唇を動かし、息を吹きかけた。 心が教典を覗き込めば、そこにはすっかり元通りになった、『般若心経』があった。 「印を結びなおしましたゆえ、これでおかしな出来事は起こりますまい」 そう言うと、蒼は腰を上げ、猫又の心と共に法隆寺を後にした。 「ねぇ、蒼。どういうこと?」 牛車の中、心が訊ねると、蒼は微笑を浮かべ、華奢な身体を引き寄せた。 「空は、般若心経の要。あって、なきがごとし。すべては虚ろであるという意味だ。けれどね、玄奘三蔵の法力は本物だ。彼の力は空になることはできず、この世を彷徨ってしまったんだ。形はなく、けれども声はする。町での不可解な出来事もすべて、あの教典の空の仕業だろう。なるほど、それならば大和の国を中心にして異な事が起こるのも頷ける」 「じゃあ、空っていう文字も虚ろになっちゃったの? でもどうして虚ろになっちゃったの?」 「たれかが呪をもって空の印を解いてしまったのであろう」 「いったいたれが、何の目的で印を解いたのかな?」 「さて……。どうであろうな。故意に解いたのかも知れぬし、ちょっとした事故で解いてしまったやもしれぬ。法隆寺には何の悪意も感じなかったからね、異なる次元の者の仕業ということも考えられる」 「ふうん? 蒼、お腹空いた」 心にとっては食欲の方が先なのだろう。蒼の言葉は、心には理解できなかったようだ。彼は曖昧に頷くと、広い胸に頭を寄せ、空腹を訴えた。 「そうか、では、心が好きなニシンの煮付けでも用意するとしよう」 ふたりは月明かりが照らす夜道を進んでいく。 静かな夏の夜。どこからか吹く、心地良い風に吹かれながら……。 ―大和の国より異形なものあらはる。完― |