chapter:陰陽之書 其の弐 【鬼、西瓜を食す。】 ――とある小さな村に、ひとりの地主がいた。その者はたいそう金持ちであるのにかかわらず、困っている者がいても着るものや食べるものさえも分け与えない、卑しい人物だった。 その地主がぱったりと姿を見せなくなったのはいつの頃からだろうか。 なんでも彼は病にかかったらしく、医師に相談しても医術の施しようがないという噂を耳にした。 その病、原因不明のもので、医者でさえも前代未聞だった。――というのも、どんなに飲み物を口にしても喉の渇きを潤せない病だそうだ。井戸の水を浴びるほどに飲んでも渇きは癒えず、屋敷に隠りきりになっているらしい。 旧暦七月の十四日目。旧暦七月は今でいう七月下旬から九月上旬頃のことだ。 その日は虫の音もなく、風も吹かない、じっとりとした夜だった。 頭上には、上弦の月が、闇に染まった夜道をうっすらと照らしている。 伊助(いすけ)は何度も後ろを振り返り、追っ手の姿がないことを確認しながら、進んでいた。だがそれは走るという行為にはほど遠い。 なにせ、進めば進むごとに膝は笑い、全身から力が抜け落ちていく。 地面を這い、歩くような足取りだ。 後ろを振り向けば、今はまだ何も見えない。 ほっとひと安心すると、ふたたび足を引きずり、夜道を進む。 周囲には静寂が広がっている。 ひぃひぃと上がる息でさえも、おぞましく感じる。 ここで足を止めたい。 しかし、ひとたび立ち止まってしまえば、自分の命は『あれ』に喰われてしまう。 伊助は震える身体に鞭を打ち、ただひたすらに身体を引きずり、進んでいた。 どのくらい進んだ頃だろうか。 牛車が見えた。 それは夜道なのに薄ぼんやりと輝いているようにも見える。 今の刻限は丑三つ。普通なら、恐怖を覚えるこの光景でも、今は追ってくる『あれ』の存在以上に怖いものはなかった。 「もし、もし、お助けください!!」 伊助は藁にもすがる思いで、闇の中を進む牛車に駆け寄った。 牛車の中を覗けば、年の頃なら二十五歳前後。白の狩衣に身を包んでいる男がひとり。その男の膝の上には、可愛らしい子猫が身体を丸めていた。 しかしその猫、普通の猫ではない。尾はふたつに分かれている。猫又という妖しに違いないと、伊助は思った。 伊助は、男の姿を目にすると、どっと泣き崩れた。 「助けてください、どうかお願いです」 伊助は男の足下まで頭を下げ、懇願した。 「どういうことなのか、お伺いいたしましょう」 その声音はとても穏やかで、静寂にも似たものだった。 彼の膝にいる猫又は黒の耳をヒクヒクと動かし、まるで何かを警戒しているようだ。 もしかすると、この猫もまた、背後から差し迫ってくる『あれ』の存在に気づいているのだろうか。 伊助の背筋が凍る。 「主人が、わたしを食べに来るのでございます」 伊助は泣きながら説明をはじめた。 伊助はここから少し外れた村で、地主の家人として住み込みで働いていた。 困っている人を見ても素知らぬ顔をする主人は、村では評判が悪い。 しかもその地主、原因不明の病にかかってしまった。 地主に雇われていた家人たちは皆、自分も病にかかっては大変だと逃げ出した。 残ったのは伊助ただひとり。 しかし、伊助は早くに父を亡くし、病気の母を抱えていた。貧しい身分でも雇ってくれる地主の元を離れることができず、今日もいつものように世話をして過ごしていた。 するとどうだろう。午前には何ともなかった地主の姿が変化していったのだ。 夕刻を過ぎた頃になると、伊助はいよいよ不安に思い、夜具の中を見やれば、皮膚は赤黒く変色し、痩せ細った骨ばかりが目立つ身体なのに腹部が丸く膨れ、足の甲が浮腫んでいるではないか。 その異形な姿の恐ろしさに、伊助は自分の名を呼ぶ主から何とか屋敷中を逃げ回っていると――。 「喰いたや、喰いたや……伊助、喰いたや」 掠れた声は地の底からのような、おどろおどろしい声へと変化した。 「見つけた、伊助」 恐ろしい速さをもって地を這い、目の前までやって来きたのだ。 命からがら逃げ果せ、そうして今ここにいることをやっとのことで話した。 ……ずる、ずるり。 背後から、地面を這う音が聞こえてくる。 「ああ、来ました。どうか、どうかお助けください」 ……ギギギギギィ! 猫又は全身の艶やかな毛を逆撫で、男の膝の上で細い声を出し、主の声がする方を向いて威嚇している。 蒼は猫又の頭を撫で、大丈夫だと宥めてやると、伊助を牛車の中に引き入れた。 それからなにやら呪文のようなものを口にする。 「伊助、どこじゃ。どこにおる。喉じゃ、喉が乾いてならぬ。お前の血をおくれ」 牛車の近くで、しわがれた声が聞こえる。男はいまだ猫又の頭を撫で、宥めている。 生きた心地がしない中、主の声はようやく小さくなっていく。 猫又が威嚇を止めた頃には、あたりにはすっかり静寂が戻っていた。 「さあ、もう大丈夫ですよ」 「ありがとうございました。助かりました。やはり貴方様は陰陽道を司る方でいらっしゃったのですね」 やがて、蒼の言葉を合図に、伊助は引き結んでいた唇の戒めを解き、感謝の言葉を口にすると、蒼に向かって深くお辞儀をした。 「しかし、ここで帰れば、おそらくはまた『あれ』が襲ってくるでしょう。さて、どうしたものか……」 「にゃあ〜」 猫又はひと鳴きすると、男の裾を噛み、グイグイと引っ張った。 「そうだね、心。そうするとしようか」 男は薄い唇に笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いて見せた。 「私の名は小野木 蒼(おのぎ あおい)。この子は心(しん)です。主殿は、強欲な性格が災いし、おそらく餓鬼に堕ちてしまったのでしょう。餓鬼道に堕ちてしまった身体は救うことはできませぬが、魂は救えるかもしれませぬ。西瓜はございますか? あと、筆と硯。紙も――。できればすぐにでも用意をしていただきたいのですが……」 「あ、それなら屋敷にございます」 蒼は伊助に名を告げると、早速本題に入った。伊助は大きく頷いてみせた。 果たしてひょんなことから出会った陰陽師と共に、伊助は屋敷に戻ると、早速筆と硯に紙。それから西瓜を用意した。 蒼は、大人の頭ほどの見事な西瓜に筆で『伊助』と書いた紙を貼り、呪文を唱え、主の寝室に置いた。 それから夜具の隅に陣取ると、指で印を作り、伊助と猫又の心と共に息を潜めた。 「どこじゃ、どこにおる。喉が渇いた。伊助や……」 やがて、ずるずると地面に身体を擦りつけ、屋敷に戻ってきた主は、夜具まで辿り着いた。 「おお、かようなところにおったのか、伊助や」 大きな西瓜を前に、黄色い歯を見せてにやりと笑った。 もはや骨ばかりとなった細すぎる腕で西瓜を掴むと、主は大きな口を開け、がぶり、がぶりと硬い皮ごと、赤い果実を喰らう。 がぶり、じゅうじゅう。 主は西瓜のすべてを喰らいつくし、やがて夜が明ける頃。 穏やかな顔つきのまま息絶えている主の姿があったという。 ―完― |