chapter:玉かずら 時刻は酉(とり)の刻。暮六ツ。今でいう午後七時。この吉原遊郭中のそこかしこから、太鼓や笛、それに小鼓などのお囃子(はやし)が聞こえてくる。 これは夜見世がはじまる合図で、美しく着飾った娼妓達は上客をとろうと、見世に顔を出す。 しかし、ひとりの娼妓(しょうぎ)だけは違った。 彼の名は玉蔓(たまかずら)。 透けるような柔肌に、腰まである艶やかな黒髪が相俟って儚い雰囲気を作り出す。 唇は紅を差さずとも赤く、弧を描く眉と長い睫毛。強気なのが見て取れるつり上がった黒目は黒曜石のように清んでいる。一見すれば女性のような、たいそう美しい娼妓だった。 本来、古くからの慣わしは守らなければならない絶対的なものであるにもかかわらず、けれども彼だけはそれを許されていた。 というのも、彼は吉原中すべての郭の中で一番人気で、見世の利益はほぼ彼ひとりが影響を及ぼしていたから、優遇されていた。 だから玉蔓は見世には顔を出さず、見世の裏手の方にいた。 人びとの喧噪は消え、静かな夜気が漂う。その闇に溶け込むようにして、小川のせせらぎに身を任せる。 薄暗闇が広がるそこは孤立しているように感じる。どこからともなく、りぃ、りぃ……と儚げに羽根をならす鈴虫の音色が聞こえてくる。 視界に広がるのは、薄闇の中で薄緑色にぼんやりと光を放つ蛍たちだ。 蛍は、ある説では自分を自ら危険だと知らせるために光るとも言われている。その姿は虚勢を張って生きている自分に似ていると、玉蔓は自嘲気味な笑みが零れた。 彼はもう、阿蘭陀(おらんだ)から戻ってきた頃だろうか。 そんな玉蔓の脳裏には、ひとりの男が浮かぶ。 否、玉蔓は片時だって彼を忘れたことはない。常に彼を想っている。 ――それは三年前。 玉蔓には心から許せる男と出会った。漆黒の黒髪は襟元にかかるよりも少し短く、象牙の肌に鋭い双眸の美しい男性。玉蔓は一目見た瞬間から彼に目を奪われ、そして彼もまた、足繁く玉蔓の元に通い、楽しい夜のひとときを過ごしていた。 そんなある日のことだ。 彼の親族の使いの者が玉蔓の前に現れ、「彼はこれから三年間、阿蘭陀へ行き、医術を習い、立派な医者になって戻ってくる。彼の名に傷が付くから関わらないでほしい」と告げられた。 玉蔓は使いの者の言葉を一蹴したものの、けれども自分の立場というものが彼にとって悪影響でしかないということも知っていた。 だから玉蔓は彼を想い、自らの手で幕を下ろすことにした。 玉蔓は彼が阿蘭陀へ行くことで見世に顔を出さなくなることを理由にして、金子がもらえないなら通ってもらう意味がないと、彼を郭に来られないよう閉め出した。 それからだ。彼は二度と玉蔓の前に現れることはなく、そして玉蔓の心には三年経った今もなお、彼がいる。 けれども将来有望な彼は自分の元にはけっして戻らず、他に好いた女性を見つけているに違いないと自分に言い聞かせ、けっして叶わない恋心を胸に秘め、健気に生きてきた。 「颯真(はゆま)さま……」 愛おしい彼の名を呼ぶ赤い唇から、鈴虫の羽音にも負けず、悲しげな声が漏れた。 こんなに想っているというのに、気持ちを伝えられないことが苦しい。 ひと目でもいい。彼に会いたい。 しかし、彼に会おうものなら、せっかくの偉業が自分のせいで台無しになってしまう。 彼に会うこともままならず、想いすらも告げられない玉蔓は、胸の痛みに耐えきれず、うずくまる。 目の前を飛び交う無数の蛍たちの光が、ぼんやりと滲んでいく……。 「見つけた」 叶わない恋に涙していると、ほんの一瞬、静寂が途絶えた。 聞き覚えのある声に、両肩が大きく震え、反射的に振り返る。 するとそこには、すらりとした背の高い男性が立っていた。 彼は誰だか知っている。夢にまで見た玉蔓の想い人、颯真だった。 「どう、して……ここに……」 これは夢だろうか? 瞬きをすれば、大粒の涙が頬を滑り落ちた。 「君は俺を無下に扱ったが、本心は好いてくれているからだろう? 阿蘭陀に行くことを決意させるため、背中を押してくれたんだ。だから、ここに戻って来た」 「……すごい自信」 「当然だ。君は心ない人と一夜を共にする人ではないだろう?」 「俺は娼妓だ。必要なら誰とだって寝る」 「だが、必要がなければ誰とも寝ない。そうだろう?」 「……っつ!」 玉蔓の性格を知り尽くした彼はにべもなくそう言う。言い返す言葉が見つからない。 「迎えにきたよ、玉蔓」 颯真が手を差し伸べる。 もうダメだと、観念した瞬間。玉蔓の黒曜石の目から、雫がこぼれた。 玉蔓は涙を浮かべ、素直に彼の胸に収まる。そうすることが当然のように思えてくるから不思議だ。 「――と言っても、もう楼主(ろうしゅ)とは身請け話を済ませてきた後なんだけれどね」 玉蔓に断りもなく、勝手に話をすすめたことを悪びれることなくそう口にする颯真の口元が弧を描いている。 その表情は茶目っ気に溢れている。 けれどその姿さえも絵になっていて、玉蔓の胸を焦がし、見惚れてしまう。 彼はずるい男だと玉蔓は思った。 ふと周囲を見ると、蛍の光が自分たちを祝福しているかのように包んでくれている。 颯真に身を委ねた玉蔓の紅色の唇には、ほんのりと笑みが浮かんでいた。 **終** |