chapter:接吻の意味 ◆ 夜の帳にも似た、短い漆黒の黒髪が、時折障子の隙間から入り込んでくる夜気に触れ、揺れる。瞼の先にある長い睫毛は鷹のような鋭い目を隠す。すっと通った鼻筋に薄い唇。頑固そうな四角い顔。 端正な顔立ちをしたその人は、僕の隣で心地よさそうに眠っている。 『一緒になろう』 普段は滅多に笑わない彼は言うと、捕らわれていた鳥かごから僕を連れ出した。 はじめは、ただの戯れ言だと思った。お客なら色子の誰にでも言う、ただの上辺だけのものだと――。 だけどそれは違った。 彼は一度言ったことは曲げず、どんな立場であったとしても、必ず一度決めたことなら貫き通す信念を持っている。 だからだと思う。引くに引けなくなったんだ。 たとえ、僕と彼がほんの少しの顔見知りで、他のお客と僕が小競り合いになっていたところを助けたとしても――。 そのお客に、「お前は何だ。こいつの間夫か。関係がない奴はすっこんでろ」と嗾(けしか)けられたとしても――。 優しい彼は、困っている僕を放っておけなかったんだ。 だから彼はその場の勢いで身請けすると言い出し、僕を外に連れ出してくれた。 嬉しかった。たとえ、ほんの少しの間でも、僕を愛していると告げてくれた貴方の熱を感じられて――。 でも僕は……所詮はただの色子。 この冷たい世間で僕を囲うのはやっぱりいけない。 今日だって、彼のお母さんと僕のことでかなり切迫した言い争いをしていたことは知っている。 それはそうだ。だって彼は大店(おおだな)の跡取り息子だ。しかも囲った相手は男。これでは世間の面汚しもいいところだ。亡くなられたお父上様に顔向けできない。ご先祖様から守り抜いていた大店が、僕のせいで台無しになってしまう。 だから傍にいてはいけない。 甘えてはいけない。 彼に恩義があるなら余計にだ。 「お慕いしていました。貴方をひと目見た時からずっと……」 僕はこれで最後だと自分に言い聞かせ、眠っている薄い唇に自らの唇で塞いだ。 お慕いしています。たとえ僕が貴方の傍にいなくとも、ずっとずっと貴方の幸せを心より願っております。 だからどうか幸せになって。 貴方の幸せだけが、僕の幸せだから……。 名残惜しく、重ねた唇が離れる時の、そのリップ音が静寂に響く。 僕は涙を堪え、頽れてしまいそうになりながらもなんとか立ち上がると、やがてこの深い夜が明けるのを祈りながら彼に背を向けて歩き出す。 どこに向かっているかなんてそんなことはわからない。 貴方のいない場所ならそこはどこだって同じ暗闇だ。 「っひ……っふぅ……」 嗚咽を殺すのに精一杯で、頬を伝う涙さえもぬぐえない。 それでも僕は歩き出す。 貴方に似た、夜の帳の中を、さようならという言葉を胸に秘めて――。 **END** |