れんやのたんぺんしゅ〜★
優しい手のぬくもり





chapter:優しい手のぬくもり




 ◆



 季節は三月。啓蟄(けいちつ)を迎える六日。もうすぐ春だっていうのに、今年はまだ寒い。

 ふと見上げると、午前中には見えていた力強いお天道様は消え、ねずみ色に染まった高い空からはいつの間に降りはじめたのか、粉雪が舞う。

 僕、保己 千足(やすみ ちたる)は冷たくなった手を温めるようため擦り合わせ、ほうっと息を吐き出せば、唇からは白い吐息が見えた。だけどどんなに手を擦り合わせても、息を吹きかけても、まったく温かくはなれない。

 纈さんから離れてしまえば、どんなあたたかな場所であっても冷たく思える。


 僕の両親は、金銭が苦しかったんだろう。赤ん坊の時から僕には父や母と呼べる人はいない。だけどたったひとり、僕には何の縁もない人が神社の境内に捨てられていた僕を拾い、十七年になる今まで育ててくれた。

 その人は、保己 纈(やすみ ゆはた)さん。小さいけれど食事処の主人で、襟足までの短い黒髪。涼しげな双眸とすらりとした出で立ちの彼は女性にも人気だ。そんなだから、毎日がけっこう忙しくて、僕とふたりで一緒に切り盛りしている。

 両親がいなくても、纈さんとならどこだって楽しいし、苦しいと思った時はなかった。

 だけど僕は、彼の家を出た。

 その理由は、親同然の纈さんがもうすぐ所帯を持つから。

 ――もう、傍にいることはできないんだ。


「ある女性と一緒になっても、千足は平気?」

 今から一週間前、纈さんに尋ねられ、僕は痛む胸を押さえて頷いた。

「好きな人がいるの? 一緒になればいいじゃない」

 泣きたくなる気持ちを押し殺し、にっこり笑ってそう言ったのを今でも鮮明に覚えている。



 だけど嘘をつきすぎた僕の心が限界になった。

 僕はいつの間にか纈さんを父親のように見ることができなくなったからだ。いつの頃からだろう、気がつけば、いつもあたたかに微笑む纈さんを想ってしまっていた。


 そして彼は、もうすぐ奥さんを迎える。縁談が持ち上がったんだ。その人の名前はお香(こう)さん。隣村の庄屋さんの娘さんでとても器量が良いと評判の女性だ。

 纈さんは初め、乗り気ではなかったけれど、少しずつお香さんと話をしていくうちに惹かれていったようだ。


 だから僕は、纈さんとお香さんが二人で会う約束をしている今日の留主を見計らって家を出る決意をした。


 両親がいない僕には当然、行く宛てなんてない。

 行き交う人に紛れて途方に暮れてしまう。


「……これからどうしよう」

 涙で視界が滲(にじ)む。

 どんなに泣いたって、もう大きな手を差し伸べてくれることはない。


 あの、あたたかな手のぬくもりは僕から消えた。

 これからは僕ではなく、お香さんに向けられるんだ。


 愛の言葉を告げて、あの楽しい食事処は二人のものになる。そこに僕はいない。



 どのくらい歩いただろう。人通りが少ない小道までやって来た頃、悲しみという重しで身体を支えきれなくなった僕の両足は頽(くずお)れた。

「っひ……」

 どんなに想っても届かないこの気持ちは吐き出す術がない。

 こんなことなら、纈さんと出会わなければ良かった。

 僕を拾わなければ良かったのに……。

 どんなに想ってもしょうがない禁じられた恋心を告げることなんてできなくて、その分、涙で頬を濡らす。

 嗚咽ばかりが周囲を包み、静寂を打ち消す。

 泣いて、泣いて。この場所がやがて池にでもなるんじゃないかって思うくらい、泣きじゃくっていた時だった。


「千足!!」

 見知った低い声と一緒に、ふいに伸びてきた手によって僕の身体が浮いたんだ。

 見上げると、そこには切れ長の目にすっと通った鼻筋。背の高い、纈さんがいたんだ。

 なぜ、彼がここにいるのだろう。

 見間違いか。願望なのか。

 潤んだ視界を消し去るために瞬きをすれば、大きなビー玉のような涙がこぼれ落ちた。


「どうして? お香さんと会っていたんじゃ……」

 震えながら尋ねると、ハの字になった眉の間に深い皺が刻まれていく……。

 心配、してくれたのかな。


 今日は肌寒い。それなのに、こめかみのところには、うっすらと汗が滲んでいた。

 もしかして、僕を捜し回ってくれたのだろうか。

 好きな人が誰よりも早く僕がいないということに気づき、探し回ってくれたということに、胸がじんわりあたたかになる。

 だけどお香さんはどうしたのだろう。纈さんの隣に彼女の姿はない。


「昨日から様子がおかしかったからね、急いで家に戻ってみて良かったよ」


「それって……?」

 お香さんよりも僕を選んだというの?

 纈さんの幸せはお香さんの隣にあって、僕の隣にはない。


 纈さんにとって、僕は目の上のこぶでしかないんだ。

 できれば、僕の隣で笑っていて欲しいって思うけれど、でもそれは夢のまた夢。だったら、せめて好きな人には幸せになって欲しい。


 僕がいないことで幸せになるのなら、僕の分まで幸せになって欲しいんだ。


「僕、出て行くことに決めたんだ。もう十七になったし、纈さんだって、僕みたいな瘤がいたら迷惑だと思うの。お香さんと一緒に、幸せになって……」

「なぜだい? 千足も一緒でなければ俺はちっとも幸せになれないよ」

「っつ!!」

 どうしてそんな酷いことを言うのだろう。嬉しいはずの言葉は僕の胸を貫き、戒める。

 僕じゃダメ。僕が傍にいても、纈さんは幸せになれない。


 言わなきゃ。本当のことを言って、纈さんに嫌われて……それで出て行くんだ。

 そう自分に言い聞かせても、臆病な僕は唇を振るわせ、ただただ首を振る。

「千足?」

 そんな臆病な僕の両肩を、纈さんの優しいその腕が支えた。

 どんな時でも僕を邪険にすることもなく、傍にいてくれた纈さん。

 女の子みたいな華奢な体格のせいもあって、よくいじめっ子に泣かされて返ってくる度に宥めてくれた。恐くて足が竦んだ時は僕の背中を押してくれた。

 あたたかな彼を、僕がいるせいで不幸にさせることはできない。



 だから僕は手を拳にして、震える唇を動かした。

「ごめんなさい。僕、纈さんのこと、父親だと思ったことはなかった。好きでした。家族ではなくて、異性として、ずっと想っていたの」

 告げる声は、はじめはとても小さくて聞き取りにくいものだった。だけど纈さんはどんなに忙しい時でもきちんと耳を傾け、僕の声を聞き取ってくれる。

 きっと今もそうに違いない。

 聞かれたくない言葉。

 でも、聞いて貰わなければいけない言葉。

『好き』は真実だけれど、少し違う。今も好き。ずっとずっと好き。でもこの想いは叶わない。

 同性を好きだなんて――幻滅、されちゃったかな。

 幻滅、されてもしょうがないよね、本当のことだもの。


「ごめんなさい。どうか……僕のことは忘れて幸せになって……」

 僕を捨てて。そしてどうか、纈さんは僕がいた時の不自由だった分まで幸せになってお香さんと暮らして欲しい。


「ごめんなさい、ごめんなさい。……ごめ、なさ……」

 僕はしゃくりを上げながら、握ったままの拳で纈さんの分厚い胸を押した。

 そのまま走って離れて行こうとしたんだ。

 だけど僕の腕は、伸びてきたその手によって再び引き戻されてしまった。


「千足!!」

 纈さんが僕を捕らえ、唇を塞いだ。

「っふ……ん、ぅううっ」

 何?どうなってるの? どうして僕は今、唇を塞がれているの?

 瞬きを繰り返していると、僕の唇を塞いだその薄い唇が線を引いて離れていく……。

 同時に纈さんの表情がはっきりと見えてくる。

 ハの字になった眉と弧を描く唇。困ったように微笑むその表情は、今までに見たことがなかった。

 びっくりして何も言えず、瞬きばかりを繰り返していると、骨張った指がこぼれ落ちるひと雫の涙を拾った。


「好きだ。俺だって同じだよ。千足を息子のように思った事なんてまだほんの七つだった頃までだ。気がつけば君を想っていたんだ」



 えっ? 何? どういうこと?


「縁談の話は? だってすごく乗り気だったじゃない? それにそれに、お香さんはどうするの?」

 立て続けに尋ねれば、纈さんの頭が垂れていく。

 いつも頼りになって凛々しい分、なんだかすっごく見慣れない姿だ。

 こんな状況でも、好きな人の新たな一面を見られたことが嬉しいなんてどうかしている。

 僕の胸が大きく跳ねた。

「縁談の話を引き受けたのは、君を奪いそうになっていたからだ。千足を大切にしたいと思う反面、無理矢理にでも自分のものにしたいという願望があった」

「それって?」


 どういうこと? 僕は夢を見ているのだろうか。


「……実は、その話はもう断っていたんだ」

「えっ?」

 断った?


「ほら、縁談が持ち上がった時、千足はお義母さんができるって嬉しがってくれていただろう? だからてっきり喜んでくれているのだと思ってね? 断ったことを言い出しにくくてね」

「それは!! だってお香さん、とても美人だし、纈さんは嬉しいかと思って……だけど、だけど僕は本当は……」

「うん……そうか、千足は健気にも俺の幸せを願って胸を痛めていたのか。可愛いなあ、千足は!!」


 僕を引き寄せ、頭を撫でる。

 うう……顔が熱い。

 きっと今は僕の顔は真っ赤だろう。

 今度は僕が項垂れる番だった。


「千足、愛しているよ。君の他に誰かを愛するなんて考えられない」

 ぼそりと告げられた言葉が耳孔を辿り、じんわりと胸に溜まる。


 僕はぐずぐずと鼻を鳴らしながら、骨張った大きな手を握り閉めた。


 見上げれば、ねずみ色だった空は限りなく澄み渡っていた。



 **END**


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