chapter:日和下駄 ◆ その日は朝からあいにくの大雨だった。 七畳の床には、反物屋から新調したばかりの着物が虚しく衣紋(※えもん)掛けに吊されている。 せっかくの金糸で誂(あつら)えられている赤を基調とした豪華な着物は見るも寂しい。 この座敷の主である琥珀(こはく)は、肩まである艶やかな漆黒の髪と相俟(あいま)って、その名の由縁(ゆえん)とも思われる絹のようなきめ細かな肌をした頬をぷっくりと膨らませていた。 彼はたいそうご機嫌斜めだ。 琥珀は少女と見紛うほどの華奢な身体に大きな黒の目。形の良い鼻とふっくらとした赤い唇を持つ。彼はこの郭の美妓(びぎ)だ。 そのような見目麗しい彼がなぜ、このように不機嫌なのかと言えば、今、登楼(※とうろう)を果たしている彼の客――東雲 為春(しののめ ためはる)にあった。 琥珀は今日、楼主(※ろうしゅ)に無理言って、そのお客の為春と共に特別に外出の許可をもらったのだ。 為春は大店、呉服屋の若旦那だ。高い鼻、切れ長の目に薄い唇。広い肩幅に無駄な筋肉ひとつない美丈夫で、眉目秀麗な彼は郭の者たちにたいそう人気で、彼を狙っている者は多い。 その彼と外出する約束を取り付けたのだ。琥珀は今日という日をどんなに待ちわびていたことか。 それなのに、この雨ときたら憎たらしいことこの上ない。 いったいどうしてくれようか。 為春を膝枕にしたまま、琥珀は大地を強く打ち付ける土砂降りの雨音を聞いていた。 「そうがっかりしなさんな。せっかくの美しい顔が台無しではないか」 為春はぷっくりと膨れている頬を撫で、一向に機嫌を直さない琥珀を宥(なだ)める。 「だって……楽しみだったのに……」 琥珀は、むううっとひとつ呻(うな)り、伸ばされた大きな手を取った。けれども機嫌は直らない。 だって為春は忙しい身の上だ。 ただでさえ登楼の機会もひと月に一度あるかないかの日が続く。 せっかく一緒に出かけられると心待ちにしていた矢先の、突然の大雨。これではすべてが台無しだ。 琥珀が機嫌を損ねていると、為春が沈黙を破った。 「おや、雨が上がったねぇ」 ふいに打ち付けるような雨音が消えた。その代わりに小鳥のさえずりが聞こえてくる。 「あ……」 為春は起き上がる。琥珀も彼に続いた。 為春は半開きになっている木窓を開けた。 外を見ると、灰色に染まった分厚い雲はあっという間に消え去り、青空が広がっている。 真っ青な空には傾きかけたお天道様が見えた。 「少し遅くなっちまったが、今から外に出るかい?」 「はい!!」 先ほどとは打って変わってすっかり機嫌を良くした琥珀は満面の笑みを浮かべた。 雨水を含んだ土の甘い香りが鼻孔をくすぐる。 枝枝に生い茂る草花は水晶のような水滴を身にまとい、お天道様の光に照らされ美しく輝いている。 昼見世が終わり、時期に夜見世が始まる暮れ六つ(※)。 本来ならば今の時刻は賑々しく人びとが行き交っている。 だが今日は先ほどまで大雨が降っていたおかげで、人通りはほとんどない。 遊郭ばかりが存在する、おはぐろぼり(※)に囲まれたそこには琥珀と為春のただふたりきりだ。 琥珀が用意した着物は着る機会を失ってしまったが、それでも心は浮き立っていた。 雨に濡れた土から足を守るための慣れない日和下駄(※ひよりげた)は高く、進む歩幅はいつもより小さい。 「転ぶと危ないよ」 それを見かねた為春が、そっと手を差し出した。 「見てごらん。琥珀、虹だよ」 「……綺麗」 為春が顎で示したその先には、七色の架け橋が青空に浮かび上がっていた。 琥珀は瞳を輝かせ、七色の虹を見上げた。 七色の虹に圧倒されたふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。 しかしそれも為春の声によってすぐに破られた。 「この虹も感慨深(かんがいぶか)いものだと思わないか?」 「えっ?」 「美しいと思うこの虹はすぐに消えてしまう。しかし、それだからこそ美しいと思うのだよ。人はその時見た景色や感動を見逃すまいとする。生まれたこの一瞬を大切にして、懸命に生きようとするだろう」 「……はあ」 為春はいつも不思議なことを口にする。 彼の言うことのほとんどが難しくて琥珀にはよくわからない。 それでも彼の考え方は独特で、聞いていて飽きない。 為春は果たして何が言いたいのだろうか。 琥珀はわけもわからず小首を傾げていると、彼はふたたび口を開いた。 「だからね、琥珀。俺もお前と共にいる刻を大切にしたい。俺の隣にいてはくれまいか?」 「えっ?」 「お前を身請け(※みう-け)したい」 虹を見ていたはずの切れ長の目は今、琥珀を見つめている。 その目は揺るぎない信念を宿していた。 (為春様……?) 目頭が熱い。 琥珀の視界が揺れはじめる。 ――為春は大店の嫡男で、自分は春を売る者。 けっして想いは通じない。 どんなに彼に抱かれても、どんなに愛を告げられようとも、それは所詮(しょせん)ただの戯(ざ)れ言で本心からではない。 為春は近い将来嫁を娶(めと)り、やがてこの郭にも登楼しなくなる日が来るだろう。 自分の事など忘れて幸せに過ごすに違いない。 琥珀はこれまで、戯れ言に現を抜かさぬようにと自分に言い聞かせ、何度身が引き裂かれる思いがしたことか。 この時間は過ぎていくばかりで二度と手に入らないものだと思っていた。 今朝の大雨だってそうだ。これは神様からの啓示(けいじ)で、自分と為春とは相容れぬ存在なのだから諦めるよう告げられた気さえして、神様を呪った。 それなのに、為春は琥珀を傍に置いてくれるとそう言っている。 (どうしよう。嬉しすぎて何も言えない……) 「……為春、様……」 愛おしい彼を呼ぶその赤い唇から放たれる声は震える。 涙袋に溜まった大粒の涙がひとつ、またひとつと頬を滑り落ちていく……。 「実は、親父には許可を得ていてね。恥ずかしい話、琥珀と会えない日が続くと仕事が手に付かないんだ。それを見かねた親父が身請けするよう勧めてくれたんだよ。もちろん、後にも先にも、俺の隣は琥珀しかいない。俺の跡継ぎは養子になることも承知してくれた」 力強いその大きな手が琥珀の手を包み込む。 雨に濡れたその光景が滲(にじ)み、琥珀の世界はただただ光輝いていた。 ―完― ※衣紋掛け――今でいうハンガー。 ※登楼――遊郭に通うこと。 ※楼主――郭の主人。経営者。 ※暮れ六つ――午後六時頃。 ※おはぐろぼり――大門から吉原を囲む大きな堀。 ※日和下駄――背が高く、薄い歯の下駄。一部によると、雨の後のぬかるみでも裾を汚さず履けるということでこの名がついたとも言われているそうです。 ※身請け――芸妓・娼妓などを身の代金を払って年季のすまないうちにその商売をやめさせること。(大辞林より引用) |