れんやのたんぺんしゅ〜★
書生の恋





chapter:書生の恋




 ◆



 午前六時。音松 清志郎(おとまつ きよしろう)はふと目を覚ました。

 床から身を起こし、縁側に沿って流れる庭へと降り立てば、三日前から降り続いていた霧雨はやっと止み、空は雲ひとつない青空が広がっている。

 立派な庭に生い茂る草はいっそう深い青へと色を変える。中でも清志郎の目に写ったのは、雨水を受け、陽光に照らされ輝いている、見事なまでに美しく花々を咲かせている黄色い花弁の金雀児(えにしだ)だ。


 今日は休日。三日三晩降り続いていた雨はようやく止んだ。

今日はこの三日間の間に溜まってしまった洗濯物も、うんと干せるだろう。清志郎はひとつ伸びをして、鼻孔を膨らませると晴れ晴れとした朝の新鮮な空気を取り込んだ。



「…………」

 それにしても、何やら焦げ臭くはないだろうか。

 清志郎は新鮮な空気と共に、おかしな匂いが含まれていることに気がついた。

 さて、いったいどうしたのか。清志郎はどこからともなく漂ってくる異様な匂いの正体を知るべく、部屋から抜け出す。

 どうやらこのツンとした匂いは台所から発生しているようだ。


 そこで気がついたのは、この広い屋敷に住む主人が目を覚ましたのかもしれないということだ。

 実は清志郎。この屋敷の住人ではあるものの、ここの宿主ではない。清志郎は大学に通う学生で、数ヶ月前に両親の元から離れて上京を果たした書生であった。

 清志郎が浅はかだったのだ。都会に上京さえしてしまえば、働き口はすぐに決まると高をくくっていたのが悪かった。

 しかし清志郎は田舎育ちで右も左もわからず仕舞いだ。当然、働き口は見つからず、明日の生活もままならない。

 清志郎はいよいよ困り果てていたところ、昔からの幼馴染みだという教授の伝手(つて)でここの主人を紹介して貰ったのだった。

 それというのも、巷では名の知れた文豪と名高いここの屋敷の主人は家事全般が苦手で、しかもかなりの人見知りらしい。

 引きこもり勝ちな彼は夢中になって作品を執筆する。おかげで食事もままならず、栄養失調で倒れることもしばしあったとか――。

 そういうことで、清志郎はこの屋敷に無償で住まわせてもらう代わりに、主人に代わって家事全般を引き受けることになったのだ。


 斯(か)くして、庭に流れる縁側に沿って台所へと赴(おもむ)いた清志郎の目に止まったのは、案の定、流しの前に立つ人影だった。

 そこには年の頃は三十代。長身で細身の男が立っていた。

 長身といっても百八十五センチの清志郎よりはやや低めで、食が細いせいか、かなりの細身だ。

 顔は整っていて、なかなかの容姿ではあるものの、薄茶色の髪は天然なのか。毛先はあちらこちらに広がり、ただでさえそういった状況なのに手入れもされていないおかげで、せっかくの容姿もすべてが台無しだ。

 おまけに寝起きなのか。掛け衿(えり)は広がり、着物も乱れている。

 東雲 七助(しののめ しちすけ)。それがここの主人の名である。



「七助さん、いったいどうなさったんです? 言ってくだされば俺が作りますよ」

 どうやら七助は空腹だったらしい。米を焚(た)こうとしたのか、釜の中には煤(すす)で大惨事になってしまった白米があった。


 何分学生の清志郎は学費を支払うだけで手一杯で、当然袖の下は涼しく、家賃や生活費を出す金はない。自分はここに住まわせて貰っている立場だ。こういった家事全般は清志郎の役割だ。

 それに同意した筈(はず)の七助は、しかし小さく首を横に振った。


「清志郎くんにばかり負担はかけられない。だってせっかくのお休みだし、たまにはゆっくりして貰おうと思ってね。だけど米さえも焚けないなんて……」


 金持ちというのはもっと気位が高い、高飛車なものだと思っていた。それなのに彼はそういう人柄なのだ。これで人見知りをしなければ、七助は人当たりの良い世渡り上手になれることだろう。

 しかし、そうなってしまえば自分がここにいる意味はなく、この屋敷から追い出されてしまう。


 七助がこのような人物だからこそ、清志郎は放っておけず、気がつけば七助に対して抱いてはいけない気持ちを抱いてしまったのだ。

 同性相手にこの感情はおかしい。それでも清志郎は芽生えた感情から懸命に目を逸(そ)らそうとするものの、それも無駄だった。

 この恋はけっして叶うこともなければ消ゆることもないというのに……。



「そんなに気遣わないでください。俺は書生としてこちらでお世話になっているんですから」


 清志郎は焦げ目ばかりが目立つ無惨な姿になった米を見下ろし、苦笑を漏らす。


「僕も清志郎くんのようにしっかり者だったらよかったのに……」

 七助は相当なダメージを受けているらしい。大きなため息をついた。

 七助はそう言うが、しかし清志郎は違う。もし、七助が何でもできる人だったならば、清志郎はここにはいない。七助とは出会えなかっただろう。


「七助さんはそのままで十分素敵だと思いますよ」


 がっくりと項垂れる七助は本当に三十代後半の年齢だろうか。可愛い姿に笑みがこぼれてしまいそうになる。


「さあ、片付けてしまいましょう。飯は何を作りましょうかね。七助さんは何が食べたいですか?」

 清志郎がひとつ腕まくりをして七助に訊(たず)ねると、彼は慌てて釜を持った。



「これは僕がやらかしたんだ。自分で片づけるよ」

「おかずを作っている合間に洗うので気になさらなくて大丈夫ですよ」

 七助の細い腕から釜を抜き取ろうとすると、指先が触れた。

 触れた指先から七助の体温が伝わる。静電気のようなピリリとした痺れが全身に甘い余韻を残す。

 それでも清志郎は平静を装い、釜を受け取ろうとしたのだが、どうしたのだろう。俯く七助の耳が赤いように思える。


「七助さん?」


 ひょっとして風邪でもひいたのだろうか。そういえば、小説の締め切り間近だったのか、ここ最近ずっと部屋に引きこもっていた。それに加えて雨は降り続けていたし、体調も悪くなるのは当たり前かもしれない。


「……僕はいけない人間だ」

 七助が誰に言うでもなくぽつりと告げたその言葉は空気に溶け、消えていく……。

「先日、清志郎くんに休暇はあげているのかと、潮(うしお)に忠告されてしまったんだ」

 潮というのは七助の幼馴染みで、この屋敷に書生として住まわせてくれるよう仲介をしてくれた、大学の教授だ。

「休暇なんていいですよ。もともと家事全般は好きな方ですし、それに掃除や炊事。洗濯の合間は好きにさせていただいていますから」


「だが、しかし。清志郎君は背も高いし、僕とは違って黒い髪も綺麗だし、整った顔立ちをしていて格好いいから。女性に好意をもたれることが多いと潮から聞いた。異性との交際も……したい年頃ではないかな」


 清志郎は他人に興味はない。あるのは、目の前にいる七助だ。けれどそれは当然言えることではなく、口を閉ざしてしまう。

 何も言えず、ただただ俯く七助を見下ろしていると、彼はまた、ぽつり、ぽつりと話しはじめる。


「僕は……清志郎くんがずっとこの家にいてくれればいいと思うようになっているんだ。僕の傍にいて、誰とも交際する暇もなくこうして、このまま……って」

 いっそう小さくなる声に耳を澄まし、聞いた言葉で清志郎は自分の耳を疑った。

 だってそれはまるで告白のようではないか。


「それって……?」


 言葉の聞き間違いではありませんようにと祈る清志郎の胸が跳ねる。


「僕は……こういう汚れた目で君を見ていたんだ。すまない。だからこの家から君は出て行くべきだと……」

 まさかとは思うが、ここ最近自分の部屋に閉じこもっていたのはそれを考えていたのだろうか。

 小説ではなく、自分の事を……。

 清志郎はもう何も考えられないまま手を伸ばし、七助を流しに向かって押し倒した。



「清志郎くんっ!?」

「俺も同じ気持ちだって言ったら、七助さんはどうなさいますか?」

 七助との距離は僅(わず)か数センチ。七助が呼吸するたびに清志郎の唇にあたたかな息が当たる。



「えっ? それってどういう……?」

 突然のことで七助は頭が追い着いていないのか、目が泳いでいる。

 可愛らしいその姿に、清志郎の薄い口元に笑みが浮かぶ。

 静かな午前の空間に心音が響く。

 この大きく鼓動する心音は果たしてどちらのものだろうか。


「俺は七助さんが愛おしいです」

「っなっ!?」

 清志郎は今度こそ決定的なひと言を告げた。


 しかしどうしたことか。七助は朱に染まった顔を俯け、それっきり動かない。


「好きです」

 ぼそりと呟くその声には熱が隠っている。最後の止めになった清志郎の言葉とその熱に当てられた七助の腰はとうとう砕ける。


 七助は真っ赤になった顔を両の手で隠し、その場にうずくまる。


 けっして実ることはないと思っていた恋――。


 これが嘘ではないことを確かめるため、清志郎は七助の額と自らの額を重ね、互いの体温を確認する。それから彼の細い腰に腕を巻きつけ、七助を引き寄せた。


 二人は、この両手の中にある幸福を噛みしめるのだった。



 **END**


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