transend darkness-

第六章





chapter:反抗V




 V



 こんなに満たされた気持ちになったのは何年ぶりだろう。少なくとも十五年前からは感じたことがなかった感情だ。

 ノアは夢見心地のまま、うっとりと目を閉じていた。


 しかしどうにも様子がおかしい。

 ノアがどんなに身じろぎをしても、力強い腕の感触は一向に感じないのだ。

 そしてイジドアの気配を探っても、結果は同じ。彼の気配を感じ取ることができなかった。

 慌てて身体を起こせば、そこはキングサイズのベッドとナイトテーブル。燭台に乗った今にも消えそうな炎が灯っている蝋燭(ろうそく)。それに殻になった血液パックと点滴スタンドが無造作に転がっている室内があるだけだった。

 ノア以外、誰もいない。


 果たしてイジドアはどこに行ってしまったのだろう。


 ほんの少しだが、イジドアの過去を垣間見ることができた。

 生きている年数はノアよりもずっと長いものの、それでも彼は自分と同じ心の通った人間のままだということを理解した。


 力強い腕で抱き締められ、心があたたかになった。

 何よりセックス目的ではない、純粋な優しさをイジドアから与えられたことが純粋に嬉しかった。

 それなのに、自分を置いてどこかへ行ってしまうなんて……。

 ノアはイジドアに裏切られたような感覚に陥った。

 胸に鋭い痛みが走る。

 ベッドから立ち上がると、蕾から溢れたイジドアの白濁が筋を作り、太腿を伝って流れる。

 彼はいったい自分の事をどう思っているのだろう。

 ただの契約相手なのか。それとも性欲処理なのか。あるいはその両方かもしれない。

 しかし、それだけだろうか。

 ノアを慰めてくれた時、彼の瞳の奥に何か別のものが宿っていたと思ったのは気のせいだったのか。

 それを聞き質(ただ)そうにも、当の本人が傍にいないのではそれさえもできない。


「……イジドア」

 唇に乗せて彼の名を呼ぶ。


 するとどうしたことか、彼の気配を感じ取ることができた。

 彼は今、恐ろしいスピードで北の方角に進んでいる。


 ノアは急いで自室に戻り、軽くシャワーを浴びて着替えを済ませると、銀の短剣を腰に差した。

 彼は慌ただしく二階を駆け下りる。

(ああっ! もう、早くしなきゃいけないのにどうしてこの屋敷はこんなに広いのっ!!)

 ノアは今に限って、この屋敷内がとても広いことに苛立っていた。

 こうしている間にも、イジドアは屋敷から離れていっている。


 ノアがやっとのことで玄関ホールに辿り着いたその時、慌ただしい足音を聞きつけたサイモンは、ただ事ではないと思ったのか、姿を現した。


「いかがなさいましたか?」

「イジドアがいないんだ」

 サイモンが問うと、ノアは早口で答えた。

 早くしなければ、イジドアはどんどん先に行ってしまう。

 ノアはイジドアが、自分の手が届かない、どこか遠くまで行ってしまいそうで怖くなった。

「また悪魔退治ではございませんか?」

 サイモンの問いに、しかしノアは大きく首を振った。

「今回は何か違う。とても嫌な予感がするんだ。イジドアが死んでしまうかもしれない。そんな気がして……」

 ノアは自分の胸を押さえた。心臓はとてつもない早さで鼓動している。

 太陽に焼かれた時のように、また意識を失ってしまうかもしれない。


 イジドアが力なく横たわる姿を想像しただけで、胸が引き裂かれるように痛む。


 この気持ちはいったい何だろう。

 ノアが疑問に思っていると、サイモンが口を開いた。

「ノア? 貴方の心は……」

 どうやらサイモンはノアの気持ちを知っているらしい。

 そしてノアもまた、もうすでに気づいていた。

 ただ、その気持ちを素直に受け入れられなかったのは、イジドアがヴァンパイアだからだ。

 彼は自分の両親と村の人びとを不幸に追いやったヴァンパイアと同じ種族。それがノアの胸に詰まっていた。

 しかし、それももう心の整理はついた。

 イジドアはヴァンパイアである以前に、良識のある、優しい人だ。

 村を襲い両親や人びとの命をことごとく奪っていったランバートとは違う。



(ああ、そうだ。僕は彼を愛している。だからこそ、彼を死なせたくない。失いたくない!!)

「僕はイジドアを愛している。ねぇ、サイモン。同性でもこの感情は抱いてはいけないこと?」

 ノアは自分の気持ちを理解すると、すんなりと言葉になって口から飛び出した。


 ノアの目がサイモンを捉えた。その瞳は縋(すが)っているようで、悲しみを帯びている。

 ノアは非難されることを恐れていた。できることなら、この気持ちをイジドア本人に打ち明けて否定される前に、サイモンに否定されたくはない。


 心が粉々に打ち砕かれるのはもうたくさんだった。


「いいえ、誰かを愛することはとても素晴らしいことでございますよ」

 ノアの気持ちを察したサイモンは、背中を撫でながら宥(なだ)めてくれた。

 真紅の唇から安堵の深いため息がこぼれる。

 果たして自分の気持ちを知った時、イジドアはどう思うだろうか。

 イジドアは同性を愛してしまったノアを嫌悪するだろうか。

 ノアの幸せをことごとく奪った憎きランバートにさえも身体を開き、快楽を感じてしまったふしだらな自分のことを受け入れてくれるだろうか。


 一抹の不安がノアの胸を過ぎる。

 だが、今はそんなことを考えている余裕はない。

 なにせ、ノアが想っているその当人はどこかへ向かっているのだから……。

 ノアは、彼が手の届かないどこか遠くへ行ってしまいそうで恐かった。


「しかし、イジドア様はいったいどちらへ向かわれたのでしょうか」


「多分、わかる。なんでだろう。イジドアの気配を追うことができるみたいだ」

 いったい、どうやってこの能力が発揮されたのかはわからないが、それでもこの力がイジドアの元に行ける術だとノアは疑わない。


「ならば参りましょう」

「でも!!」

 サイモンは自分と一緒にイジドアを追いかける気だ。

 ノアは躊躇(ためら)った。なにせ彼はノアのように霊能力があるわけでもなければ、イジドアのようにヴァンパイアでもない。サイモンは歴(れっき)とした一般市民だ。

 彼を巻き込むことはできない。


「ここから遠いのでございましょう? それにイジドア様のスピードは並みの人間では追いつけません。今から車を出しましょう。それにこれが一番重大です。あと四時間ほどで夜が明けてしまいます。なんであれ、数は多いにこしたことはありませんよ」

 ノアが口を開こうとすると、直ぐさまサイモンが口を挟んだ。

 笑い皺を浮かべたサイモンのブラウンの瞳が血相を変えているノアを写している。


 それから後のサイモンの行動は七十を過ぎた年齢だとは思えないくらい、とても早かった。彼は黒塗りの、見るからに高級そうな黒塗りの車を玄関先に付け、それからノアを補助席に乗るようドアを開けた。

 どうやら彼はもう、ノアと一緒にイジドアを追いかけると決めてしまったらしい。

 

 ノアはサイモンの行動の早さに驚いた。

 サイモンは一見すると穏やかな性格ではあるものの、意外と押しが強いらしい。

 おそらくはイジドアの屋敷に住むと決断した時も、彼はこのようにして屋敷に住み着いたに違いない。

 その時の困惑気味なイジドアを想像するとなかなか面白い。




 ノアはサイモンに観念すると、大きく頷き、彼と共にイジドアを追った。

 この立派な車がイジドアよりも速いことを願って――。



 ―第六章・完―


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