transend darkness-

第一章





chapter:たったひとりの生存者W




 W



 バスが一台、通れるか通れないかの曲がりくねった一本道。そこにノアは立っていた。

 道路から一歩、足を踏み出せば、そこは鬱蒼(うっそう)とした樹海が広がっている。

 日中の筈なのに、見上げれば頭上には枝がひしめき合い、緑が覆っていて、木漏れ日さえも生まれない。

 ノアがバスに揺られて街外れにある陰湿な山奥にわざわざやって来た理由は――というと、今朝方あった伯父からの一本の電話だ。

 彼から言伝られた内容は、ノアがモンタギューと共に所属しているエクソシストの一団からの任務だった。


『ウィールスラムにある、街外れの山奥に、ヴァンパイアが棲み着いているらしい。今のところ人間に危害を加えるような形跡はないが、万が一ということも考えられる。監視してほしい』


 そういう事柄だった。


 退治ではなく監視。これはエクソシストの中では異例な任務だった。


 残忍なヴァンパイアに両親を殺され、村を滅ぼされたノアにとって、この任務は不満だらけだ。

 しかし、上層部からの任務は絶対だ。逆らえば、組織から外されてしまう。まだ組織に加入して間もない経験が浅いノアは情報網を持たない。それでは、かねてから望んでいる両親の――如いてはヴァンパイアに殺された人びとの敵討ちができなくなる。

 ノアは、与えられた任務に不服を感じながらも渋々承諾した。

 そうして早速、ヴァンパイアの住処になっているらしい森へとやって来たノアは、とりあえず周囲の偵察に乗り出した。


 緑ばかりが続く視界は日が差さず、薄暗い。


 バックパックから方位磁石を取り出し、ただただ歩き続ける。


 ――先に進めば進むほど、何処か懐かしい気持ちになるのは何故だろうか。

 ノアは、自分の気持ちに変化が現れているのを感じ取っていた。


 いやしかし、此処は憎むべきヴァンパイアの根城。思慕の念を抱くのは絶対に何かの間違いだ。

 ノアは首を振り、湧き出てくるおかしな感情を引っ込めた。


 そうしてさらに歩き続けた先は、少しずつ視界が開けていく。

 枝を掻き分け進めば、目の前に広がるのは大きな泉だ。


 陥没した大地から湧き出た泉の水面が、此処にある緑を写し出している。

 耳を澄ませば小鳥たちの囀(さえず)りが聞こえてくる。

 ノアは、此処がどういう場所で、やって来た当初の目的を忘れ、ただ荘厳な光景に見とれた。


 泉を見つめること数分。風もないのに水面が揺れていることに気が付いた。

 不思議に思い、泉の中に顔を突っ込む。目を凝らし、水中を見つめると、泉の水は水中であっても透明で澄み渡り、まるで遠くの地上を見渡しているかのようだ。そして底は深い。

 しばらくの間、水中を探っていると、視界の端に人の影らしきものが写った。


 その瞬間、ノアはエクソシストとしての、『ヴァンパイアの監視』という任務を思い出した。

 まさか、ヴァンパイアの犠牲者だろうか。

 だとすれば、これ以上の犠牲者を出さないためにも、監視なんて生ぬるい処置より、ヴァンパイアの掃討(そうとう)を本部に伝えねばならない。


 もし、これがヴァンパイアのしたことならば、やはり彼らは強欲で理性を持たない残忍な存在でしかないのだ。


 ノアの中で押さえ込んでいた憎悪がふたたび流れ出す。


 ノアは背負っていたバックパックを下ろし、身軽になると躊躇(ちゅうちょ)せずに水中へと飛び込んだ。


 果たしてノアが見た人影のようなものは人間だったのか。

 水中に沈みゆく『それ』が人間だというのならば、何故、この場所にいるのか。ただ単に足を踏み外しただけか。

 いやいや、もしかするとヴァンパイアに襲われ、逃げるところで泉の中に落ちたのかもしれない。


 いや、それよりも何より、彼――もしくは彼女は無事なのか。


 ノアは両腕で水を掻き分け、水底へと向かった。


 間もなくして、人影らしきものに近づくことに成功したノアは、『それ』が人であったことを確認する。


 ノアは急ぎ、溺れている人を抱えると、地上に向かって泳いだ。


 やっとのことで地上まで運び上げると、地面に横たわらせる。

 そうしてやっとのことで、自分が運び上げた人間の容体はぐったりしていて、顔色は蒼白している。もう、息をしていなかった。


 年の頃なら七十歳ほど。白髪の男性だ。しかしその老人、身長は百七十センチはあるだろう。ノアと同じくらいで、すらりとした体型をしていた。気品さえ感じさせる彼は老いたような印象がない。


 妙なのは彼が着ている服装だ。黒の礼服に身を包んでいる。

 どこかの裕福な家に仕えている執事なのかもしれない。


 彼はわざわざ礼服を着たまま、この山奥までやって着たというのか。そんな人間は前代未聞だ。


 彼はきっと、主に使いを出され、その時にヴァンパイアと遭遇し、連れ去られたに違いない。

 ノアはますますヴァンパイアの仕業に違いないと確信した。


 もし、この老人を手に掛けたのがヴァンパイアであるならば、大きな動脈が通っている箇所に牙の痕がある筈だ。


 ノアは老人の動脈のことごとくを探った。

 しかし、どうもおかしい。

 彼がどんなに牙の痕を探そうとも、目立った外傷が見当たらない。


 あるとすれば、滑って出来たのだろう右腕のところに擦り傷がある程度だった。


 そしてノアは致命的なミスを犯していたことを知る。


 てっきり死体だと思い込んでいた老人が突如として大きく呼吸し、目を開けたのだ。


「あれ? 私は……貴方が助けて下さったのですか?」


 困惑するノアに向かって、老人は人の良さそうな笑みを浮かべ、礼を言った。


 言葉を失っているノアに、老人はそれを肯定と受け取ったのか、濡れた前髪を後ろに撫で上げ、続けて口を開く。

「助けていただき、ありがとうございます。市場で林檎を買ってきたまでは良かったのですが、うっかり足を滑らせ、転んでしまいまして、林檎を落とし、追いかけましたが落ちたのがまさかの泉で、拾おうとしましたら足がつり、この有様です」

 年ですね。とそう言って笑う老人は続けて話す。


「ああ、大変です。貴方のお召し物がすっかり濡れてしまいました。いかがでしょうか、お助け頂いた御礼もしたいですし、家に寄っては下さいませんか?」

「いえ、僕は……」

 ノアは老人の提案に首を振った。

 いくら老人を助けたからとはいえ、死んだものと勝手に決めつけてしまっていたノアは、とにかくきまりが悪い。

 それに、自分には『ヴァンパイアの監視』という任務だってある。時期に日も暮れる。闇夜に紛れてヴァンパイアが活動する前に、なんとしても拠点を押さえておかなければならない。


 ノアは老人の誘いを断るが、気のよさそうな老人は意外にも頑固だった。

 彼はノアの腕を引くと、そのまま歩き出す。


 それにしても妙な話だとノアは思った。こんな山奥の中で老人の一人暮らしなんて聞いたことがない。しかも、この山にはヴァンパイアがいる。

 ひょっとして、この老人はそのことを知らないのだろうか。


 斯(か)くして、様ざまな疑問がノアの頭の中で駆け巡る中、老人に導かれるまま進んでいけば、やがて一軒の広大な屋敷が姿を現した。

 本当に此処は自分が知っている街外れの山奥なのだろうか。古き時代にタイムスリップでもして来たような感覚に陥る。

 ノアは自分が見ている光景に目を疑った。

 そして、ポケットから一枚の写真を取り出した。これは教団から渡された唯一の手がかりだ。

 白黒の写真はかなり古いが、蔓が大きな門を覆い、伸び放題の草。そして古城のような大きな屋敷が写っている。

 目の前にある光景と見比べると――間違いない。この場所こそがノアが探しているヴァンパイアの根城だ。

 まさかこの人の良さそうな老人が、ノアが憎むヴァンパイアだというのか。

 いやしかし、この森がいくら日光に遮られているからとはいえ、ヴァンパイアが白昼堂々と動いているという話は今まで一度だって聞いたことがない。


 ならば、ヴァンパイアに操られているのだろうか。

 たしか、力あるヴァンパイアは人間の血液を吸わなくとも意識を乗っ取り、操作できるということを聞いたことがある。

 しかし、だ。彼の意識は思いのほかはっきりしている。操られているような素振りさえもない。

 それに何より、老人からは魔力のようなものを一切感じなかった。


 ノアはここへきてようやく口を開いた。

「僕はエクソシストです。実は、本部からこの地に住むヴァンパイアの監視を命じられ、やって来ました」

 ノアが正直に自分の身元を告げたのは、老人が悪人には見えなかったのと、ヴァンパイアとこの老人がどういう関係なのかを知りたかったからだ。もし、彼がヴァンパイアに弱みを握られ、この生活を強いられているというのなら、助け出してあげなければならない。

 ノアの言葉に老人は目を見開き、驚いたものの、ノアの意図を理解したのか、彼はゆっくりと話をはじめた。しかし、次の言葉はノアを大いに困惑させた。


「私はサイモンと申します。ここの城主であらせられるイジドア様に命を救って頂いた者です。――私は過去、数十年前に娘を悪魔に殺され、そして私もまた、悪魔に殺されそうになっておりました。その時に、イジドア様に命を救って頂いたのです」


 ――ヴァンパイアが人間を助ける。そんなことは有り得ない。だって彼らはいつだって利己的で、欲望に忠実な生物だ。

 老人の言葉はノアを驚かせた。


 もしかすると彼はヴァンパイアに弱みを握られているのかもしれない。

 それこそ、ヴァンパイアは老人の娘さんを人質に取り、自分の命を狙うエクソシストから身を守っているのかもしれない。

 ――いや、絶対にそうだ。善人なヴァンパイアなどいるわけがない。


 ノアは小さく首を振り、サイモンと向かい合った。

 ノアのサファイアの瞳には強い輝きが宿り、決意を表している。 


「決めた! 僕も此処に住まわせてもらう!」

 教団からヴァンパイアの監視を言伝られたのだ。何処で監視しようと本人の自由ではないか。

 もし仮に、ノアが襲われたとしても、ヴァンパイアが獰猛な生き物だと知れば、教団も討伐に乗り出すだろう。

「こんなに大きな屋敷なんだし、部屋のひとつくらい分けてもらってもかまわないでしょう? 食事なら自分で用意するし、気にしていただかなくて結構。貴方が言うように、イジドアが本当に無害なヴァンパイアだというのならば、僕がいてもさしたる問題はないでしょう?」

 ノアの有無を言わせない言葉に圧倒されるサイモンは、ただただ瞬きを繰り返すばかりだった。



 ―第一章・完―


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