chapter:招かれざる客 T イジドア・ダルグリッシュは九百二十七年も前からずっと住んでいる屋敷から嗅ぎ慣れないベルガモットの匂いで深い眠りから覚めた。 中世の古き城の如く大きな屋敷はすべて、派手好きな母親の好みだ。屋敷内のことごとくは赤で装飾されている。彼がいるこの部屋以外は――ではあるが。 他の部屋に比べ、地下にあるこの部屋はまるで監獄だ。窓ひとつない十帖以上もの広い部屋は何時だって闇が広がっている。 イジドアはすっかり見慣れた部屋を出ると、ベルガモットの香りが漂う元を辿る。 石造りの階段を上り、天井についている昇降口を開ける。開けた視界のそこは一階のエントランスホールだ。 ビロードの導かれるまま、目の前にある上階に続く階段を上っていく……。 どうやら嗅ぎ慣れない匂いは二階から漂ってきているようだ。イジドアが止まった先は、数百年前は社交の場として人々が談笑し合う華々しい場所であったものの、今では空き部屋と化している数多く存在するうちの一室だ。 気配を探れば、ふたつの存在を確認できた。 ふたつのうちひとつは、ひょんな出会いがきっかけでこの部屋に住み着いた老人サイモンだ。もうひとつは……知らない気配だった。 イジドアは侵入者の正体を知るべく、この先に続く部屋のドアの前で拳を作り、ノックしようとして顔をしかめた。 ここはイジドアの屋敷だ。何故自分はノックをしようとしているのだろうか。これでは自分の方が部外者ではないか。 イジドアは拳を開き、ドアノブを握ると、部屋の侵入を阻むドアをひと息に開けた。 果たして彼が見たものとは――。 目の前に立っていたのは七十歳ほどの細身の老人、サイモンだ。 そしてもうひとり。ベッドに横たわり、静かに寝息を立てている青年の姿がある。嗅ぎ慣れないベルガモットの香りは、彼から漂っていた。そしてイジドアの屋敷であるにも関わらず、我が物顔で眠っている青年は、やはりとも言うべきか、やはりイジドアには見覚えがなかった。 青年は中性的な顔立ちをしていた。窓から届く月光に照らされた透き通った肌は滑らかで、思わず触れてみたくなる。襟足までの短い金髪が儚い雰囲気を醸し出しているものの、鼻梁が高く、顎が尖っていて、とても強情そうだ。イジドアとは同性であるはずの彼の薄い唇はふっくらとしていて、塞いでしまいたくなる衝動に駆られる。今は閉じている目はおそらく、透き通る海のような青をしたアイスブルーに違いない。 イジドアは初対面である筈の青年の目の色を、何故か簡単にイメージすることができた。 「イジドア様?」 夜の静寂が部屋全体を包む中、突然のサイモンの呼びかけに、この世のものとは思えないほどの美しい容姿をした青年に見惚れていたイジドアは我に返った。 「これはいったいどういうことだ。他人を我が屋敷に無断で入れることを許可した覚えはない」 イジドアは今や同居人となったサイモンに大声で問うた。 すると彼は、深く刻まれている皺がある指の一本を口の前に置き、イジドアに静かにするよう暗に告げる。 「ここは俺の屋敷だ」 イジドアの眉間に深い皺が現れる。サイモンの態度に不満はあるものの、それでもイジドアは先ほどよりも若干声を潜め、そう言った。 「彼はノア・フィルスコットです」 ノア・フィルスコット。聞き覚えのある名前だと、イジドアは思った。 「四年前、この屋敷にひとりの人間がやって来た折り、その者が口にした名でございます」 イジドアの心の呟きを察知したサイモンはゆっくり頷くと、話を続ける。 「彼はなんでもエクソシスト教団に所属していて、貴方様の監視の任務を言い渡されたようでございますが……しかし、あの方の意図であるというのはまず、間違いないでしょう」 「例の、あの取引の件か」 「左様にございます」 イジドアの重々しい言葉にサイモンはふたたび頷いた。 「いかがいたしますか?」 サイモンは訊(たず)ねるものの、しかし彼はもうすでにノアを屋敷に招き入れている。 それに、イジドアは契約によって生かされていると言っても過言ではない。今さらその契約を反故(ほご)にすることはできない。 だとするならば、ノア・フィルスコットを屋敷に住まわせるほか道はない。 「地下へは近づけさせるな」 イジドアはへの字に曲がった薄い唇を開くなりそう吐き捨て、背を向ける。 「さて、ヴァンパイアである貴方様の言葉を、彼は聞き入れてくれるでしょうか……」 イジドアが立ち去り際、背後でサイモンの声が聞こえたが、彼は聞かなかったことにして部屋を出た。 |