transend darkness-

第三章





chapter:心とは裏腹の身体T




 T



 ノア・フィルスコットは木目調の扉の前で大きく深呼吸すると、ドアノブを回した。

 鍵がかかっていないその扉は軋みを上げ、ゆっくりと開いていく……。


 中へ入ると、まず目に飛び込んでくるのは窓ひとつない十帖もの広い部屋だ。


 おかげで、たとえ昼間で、青空の中に太陽が頭上で輝いていたとしても、室内は夕闇のように薄暗い。


 時刻は午後十時を回った頃。

 しんと静まりかえった静寂の中で、ノアは標的を探した。彼の、繊細な手の中には、廊下から漏れる微かな蝋燭(ろうそく)の光に反射している銀製のナイフが握られている。

 ノアは怒りに打ち震える心を抑え、深く呼吸した。


 間もなくして、ノアの標的はすぐに姿を見せる。キングサイズの大きなベッドに、それはいた。

 しっかりと握り閉めているナイフの刃がベッドの上で上半身を無防備に曝している、ひきしまった肉体美の彼を映し出す。

 彼の名は、イジドア・ダルグリッシュ。

 人間でいうなら年の頃は三十前後。四角い顎に、角張ったベース顔。その真ん中にある太くて真っ直ぐな鼻梁。そして今は閉じている一重の目は上質な漆黒の色をまとい、何もかもを射貫いてしまうくように鋭い。


 しかし彼の魅力はそれだけではない。中でもノアの目を一際惹くのは四角い顎の上部にある薄い唇だ。それがノアの身体をなぞれば、何とも言い知れない甘い疼きが下肢を襲う。

 象牙色の肌をした彼の身体はベルベットようだ。たくましい腕に抱かれながら、自分の指を波打つ黒髪に差し込み、滑らかな感触を堪能する。

 ノアはイジドアに抱かれた時の事を思い出した。蠱惑的(こわくてき)な真紅の唇からは、なんとも悩ましげなため息が漏れる。


 ――刹那、ノアは我に返った。

 それというのも、ノアがイジドアの部屋に飛び込んだ目的はけっして彼に抱かれるためではないからだ。

 ノアにとって、イジドアは仲間でもなければ、況(ま)してや恋人でもない。

 彼はこの世を去ったノアの両親の仇にあたる種族。

 それだけではない。イジドアはノアの身体に拭ってもけっして消えない痕を残した。

 同性に組み敷かれるという、屈辱の痕跡を――。

 そしてノアの首筋には、彼が突き刺したふたつの牙の痕が未だに消えず、存在していた。

 初めてノアが傷痕を見た時、衝撃が走った。自分もヴァンパイアになったのではないかと焦りもした。なにせ自分の両親はヴァンパイアによって命を奪われたのだ。

 もし、自分がその凶悪な生物になったとすれば、殺された父や母と同じように、誰かを手に掛けてしまうかも知れない。

 それを恐れたノアは、絶望に打ちひしがれ、太陽の下で自滅を図ろうとしたものの、けれど彼の身体は太陽光に焼かれなかった。

 ということは、イジドアはノアをヴァンパイアにせず、ただただ自分の性欲を満たすためだけに、ノアを抱いたのだ。



 鏡に映ったふたつの痕を見るたび、ノアの心は羞恥に悶え苦しみ、はらわたが煮えくりかえるほどの怒りに打ち震えている。それなのに――ベッドの上に横たわる彼の姿をひとたび目に入れると、しっかり握り閉めていたナイフがゆっくり下がっていく。

 怒りの炎は欲望の炎へと代わり、身体中が熱を帯びる。


 ノアはこれまで何十回と彼の寝室に忍び込み、両親の仇を討とうと試みるものの、一度もそれに成功したことはなかった。

 それどころか、彼の寝室に忍び込むたび、ノアはイジドアに組み敷かれていた。

 それというのもすべて、美しすぎるこの男が悪い。

 口では殺すと言っているものの、なかなか実行に移すことができない自分自身が忌々(いまいま)しい。

 この部屋が地下ではなく、太陽煌めく午前であれば、彼の身体は灰と化し、瞬く間に消え去ってしまうだろう。

 だが、ここは地下で、明るい太陽もない。しかも、今はいっそう深くなる夜だ。

 忌々しいことにイジドアの監視をするため、同じ屋敷に住むようになったノアは、すっかり彼のライフスタイルに馴染んでしまった。

 ノアは悔しさのあまり歯ぎしりを抑えきれない。

 闇の者の弱点とされる銀製のナイフで、彼の寝首を掻こうと寝室に潜り込んだ。

 けれどノアは、今のところそれもできない。

 その理由は、彼がノアを抱く時に垣間見せる優しさが原因だった。

 ノアが知るかぎり、ヴァンパイアとは欲望深い生き物で、そのためなら何もかもを犠牲にする。

 しかしイジドアは違った。

 彼はノアを抱く時、必ずといっていいほどノアにも快楽を与え、組み敷く。

 もしかすると、それも彼の計略のひとつなのかもしれない。

 両親の仇と言いながら、ヴァンパイアに手をかけることができないノアを、彼は嘲笑っているのだろうか。

 それを考えると、ノアの怒りは今まさに頂点に達した。

 ノアはフローリングに落としてしまいそうになったナイフを強く握り直した。

 彼の首もと目掛け、鋭い切っ先を振り下ろす。

 ナイフは闇の中で妖しく光る。


「今日もまたずいぶんと大胆だな」

 永遠ともいえる彼の呪われた人生に終止符を打つため、振り下ろした切っ先は、しかし標的に届くことはなかった。

 掠れた低い声が、ノアの耳孔を刺激した。

 その声は男の色香を放ち、ノアのみぞおちに熱を与える。

 ノアは思わず喘ぎそうになった唇を引き結び、真下にいる彼を見下ろした。

 すると力強い腕が伸びてきて、両手首が捕らわれた。ノアは彼が横になっているベッドへと引っ張られていく……。





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