chapter:彼は動く縫いぐるみ。その名もエンペンくん! (二) 翌朝、篤が目を覚ましたのは日が高く昇る正午だった。 柔らかな太陽の日差しは夏ほど強くはないものの、やはり眩しい。 香ばしいバターの香りが篤の鼻孔をくすぐる。おかげで篤の腹は空腹を訴え、大きく鳴った。 どうやら体調は回復したようだ。完治とは言い難いが、昨日よりも随分身軽に動けるし、頭痛もない。 篤はベッドを抜け出し、キッチンに入ると、そこには肩章の付いた白のジャケットとえんじ色のスラックス姿の、どこぞの絵本から飛び出してきましたと言わんばかりの煌びやかな王子服を着こなした金髪美青年――自称王子のアドレーがいた。 昨日のことはやはり夢ではなかった。彼はちゃんと現実にいて、篤は魔法も目の当たりにした。昨日の出来事をあらためて認識させられる。 彼が今手にしているのは剣でもなく、盾でもない。そして彼の前にあるのは美しい白馬でもなかった。アドレーはフライパンを片手にガスコンロの前に立っていた。その出で立ちはなんとも不似合いだ。 どうやら彼はもう料理を習得したらしい。 「やあ、起きたのか。気分はどうだ?」 キッチンにやって来た篤に気がついたアドレーは口を開いた。 目の錯覚だろうか。振り向いた彼の背景には、綺麗な真紅の薔薇が見える。 アドレーと目が合っただけで、篤の胸が高鳴る。見目麗しいアドレーの姿に見惚れ、すっかり惚けてしまった篤は挨拶すら忘れていた。呆然と立ち尽くしたまま、金縛りにでも遭遇したかのように動けない。 そんなおどおどした篤の態度が異様に感じたのか、アドレーは手を伸ばした。 腕を掴まれ、篤の身体がアドレーの方へ引き寄せられる。昨夜まで熱を出した身体が傾き、たくましい両腕に支えられた。 アドレーと篤の額同士がこつんと触れ合う。 「あ、あのっ!!」 アドレーの息が頬を掠める。 見目麗しい美青年との思わぬ至近距離で、篤は半ばパニック状態だ。意味もなく何度も口を開閉して挙動不審になってしまう。 アドレーが、身近に感じられれば感じられる分だけ、篤の心臓が大きく跳ね上がる。おそらく今の自分の脈拍は恐ろしいことになっているに違いない。 「どうした? 体温が上がっている。……まさか、カミツレはあまり効かなかったのか? 博士の称号を持つ俺としたことが、なんたる失態!!」 篤はまさかアドレーとの距離が近すぎるからだとは言えず、狼狽(ろうばい)していると、彼は何を思ったのか、突然、篤の唇を薄い唇で塞いできた。 「ん、っふぅううっ!?」 篤の心拍数はさらに上がる。 深くなっていく接吻に頭の中はもう真っ白だ。 ざらついた舌の表面が、篤の舌を撫でる。背筋がぞくぞくする。 アドレーのペースに飲み込まれてしまいそうになる中、篤は頑丈な胸板を押し、なんとかアドレーから離れることに成功する。 絡み合った舌からは唾液の線で繋がっているのが見える。 朝っぱらから深い口づけを交わしたと思えば羞恥が篤を襲う。 アドレーとの口づけはこれが初めてではない。彼の肌を感じたこともあるし、篤さえも知らなかった部分を暴かれもした。それに彼の前で達したし、吐精だってした。 しかし、それはすべて夢の中の出来事だと思っていたからこそ、できた行為だ。こうして現実でも口づけられるなんて、篤にすれば考えられないことだ。 篤はアドレーに奪われた唇を腕で隠し、狼狽(うろた)えた。 唇には、いまだアドレーの柔らかな感触が残っている。 「なっ、なにをっ!!」 顔を真っ赤にして訊ねる声は、ひっくり返っている。息は自然と荒くなる。 傍から見れば、篤の動揺は手に取るようにわかるだろう。 「カミツレが効かなかったとなれば、俺の失態。風邪をうつせば治ると聞くから、どうかと思って口づけたのだが……効果はないか?」 息を乱している篤に、アドレーはそうするのがさも当たり前のように、迷いもなく答える。それどころかまじまじと見つめられ、心臓は破裂してしまうのではないかというくらい鼓動している。篤はもう、どうすればいいのかわからない。 「熱も下がったしっ、もう大丈夫ですっ!!」 「しかし、顔はまだ赤いぞ? 無理をしているのではないのか? 夫たるもの妻を気遣うのは当然のことだ」 「…………」 ――さて、彼はなんと言ったのだろう。アドレーのセリフにおかしな言葉が交じっているのを聞いた篤は静止した。 「妻!?」 またもや篤の声がひっくり返る。 「篤はあの人形店で俺を買い、同居をしている。――ということはつまり、そういうことだろう?」 「えっ?」 ――違う。買ったのは縫いぐるみで、アドレーではない。それに、同居をしているからといって夫婦とは限らないし、しかも自分は男だ。どうやっても妻にはなれない。 篤は声を大にして反論したかったが、薄い唇がまたもや近づいてくる。 羞恥で身体が火照る。何も言い返すこともできない。篤は顔を俯けた。 力なくアドレーの胸板を押す。 しかし、アドレーはそんな篤を気にするふうもなかった。 篤の腰に彼の両腕が回る。そして、ふたたび唇が重なった。 「やっ! アドレーッ! んぅうっ……」 篤は再度口内に侵入してくる舌から逃げようとするものの、長い舌は篤を追いかけ、絡め取る。 悩ましい水音が聴覚を刺激してくるからたまらない。 「ん、っふ。やっ、だめっ! 俺、アドレーのことは何も思ってないっ!!」 押しつけてくる薄い唇を必死に引き剥がし、そう答えれば、アドレーは顔をしかめた。 「なぜだ? 篤は俺のことを好きだと言ったではないか?」 彼はいったい何を言っているのか。 たしかにアドレーの容姿は篤の好みドストライクには違いないが、好きだと言った覚えはない。 「言ってないっ、何かの間違いだ!」 「いや、たしかに言ったぞ? 俺に口づけ、癒しだと言ったではないか!!」 何度も交わしてしまった口づけで、意識が朦朧(もうろう)とする。声を上げた篤を制し、アドレーが自信満々で答えた。 ――好き。癒し。 何やら言った覚えのある単語をアドレーの口から聞かされ、篤は顔をしかめた。 それは妖しげな店で皇帝ペンギンの縫いぐるみ――もとい、縫いぐるみにされたアドレーを購入し、家に帰った直後のことだ。篤は、買ってきた縫いぐるみにエンペンくんと名付けた当初――。 『好きだ、君は俺の癒しだっ!』 ……たしかに言った。覚えはある。しかし、アドレーの言葉には語弊(ごへい)がある。 縫いぐるみはアドレーだったのかもしれないが、篤はけっしてアドレーに言ったわけではない。可愛いつぶらな瞳を持ち、艶やかな毛並みにでっぷりとした体格の高貴な皇帝ペンギン、エンペンくんに言ったのだ。 「ちがっ! あれは、縫いぐるみに言ったんだ」 「そうだ、そこなのだっ!! あのような姿になっても俺を愛してくれる者がいるとは、感無量だっ!」 アドレーは篤をしっかりと両腕に仕舞い込み、今にも涙をこぼさんばかりに感激している。 (いや、そうじゃない。だから、違うのにっ!!) 篤が何度否定してもめげないアドレーにはもうついて行けない。なんとも前向きな王子だろうか。 篤は、自分は一生涯独り身で、ゲイであることを隠し通して生きていくのだと思っていた。まさかの事態にもう頭が追い着かない。 たしかに、篤にとってアドレーは理想そのものだ。しかし、彼と自分では生まれた場所も違うし、当然、価値観も違ってくる。 それに彼は王子で身分もある。片や自分はダメダメ社員の一般人だ。煌びやかな人生を謳歌(おうか)している彼とは月とすっぽん。一生釣り合いなんて取れないだろう。 「篤は、俺のことが嫌いか?」 ここで嫌いだと言えればどれだけ楽だろうか。だが、篤には項垂れているアドレーが、エンペンくんの姿と重なった。 「嫌いじゃないっ!!」 篤は思わず即答してしまった。 いつもこうだ。可哀相だからと流されてしまう傾向にあるのだ。以前、路上でもおかしな勧誘にも引っかかりそうになった経験がある。 けれどこの性格は今さら変えられる筈もなく、もうすっかり諦めている。 「そうか、それは良かった。精いっぱい尽くすぞ」 力いっぱい抱きしめられ、もう何も言えなくなった篤は、アドレーの気が済むまでこのままいるしかないと観念した。 実際、現状では彼に害はなさそうだし、それに何よりアドレーの容姿は篤の好みでもある。愛でるくらいは別にかまわないだろう。 それに、アドレーには選ぶ権利がある。彼だってきっと篤と一緒に暮らしていれば、篤のダメさ加減にうんざりして出て行くに決まっている。 そう思うと、胸がジクジクと痛むのはなぜだろう。この痛みを深く追求してはいけないと、本能が警告音を鳴らしている。 「……その……あ、あのっ。ご飯、作ってくれたの?」 篤は胸の痛みを無視していまだ離れようとしないアドレーに向かって訊ねた。 「ああ、この本は面白いな。料理というものも薬草作りと同じくらい感慨深い」 アドレーの腕が包み込んでいた篤を解放した。念願だったはずの解放がなぜか寂しいと思ってしまう。複雑な気分でアドレーを見ると、アドレーは深く頷いていた。 とても楽しそうだ。 「食べるか?」 彼はフライパンで炒めたピラフを平皿に乗せた。 話を逸らすことに成功した篤は詰めていた息を静かに吐き出し、ソファーがあるダイニングルームへと移動した。 アドレーが作ったピラフは醤油で味付けされていた。しっとりとした口当たりにほどよい米の硬さ。食材は、冷蔵庫にあった残り物の人参やピーマン、鶏肉というとてもシンプルなものなのに、素人とは思えないほど美味しい。 アドレーは四人前を作ったというのだが、二人でほとんどの量を平らげてしまった。容姿がいいどころか料理もできるなんて、王子とはどこまで完璧なのだろうか。 同性なのに篤にはないものばかりを持っていて、嫉妬を通り越して尊敬してしまう。 少々食べ過ぎたせいか、篤の腹が満腹だと告げている。アドレーのお手製ピラフを食した篤は、やはりアドレーが淹(い)れてくれたカモミールティーを飲んでくつろいでいた。 これもまた、昨日のように魔法を使わず作ってくれたものだ。 昨日も美味しいとは思ったが、やはりアドレーがひと手間かけたものはまた一段と美味しい。 気分が和む。 「アドレーは、どうして縫いぐるみにされたの?」 ほんわかした気分になった篤は、昨日訊ね損ねたことを口にした。 「うむ、父上|曰(いわ)く、俺は我が儘に育ったらしい。我が儘が直るまで国外に追放だと言われた。そこからだ、俺の意識は途絶え、気がつけば縫いぐるみの姿に変えられ、俺は老婆に売られていた」 ……なるほど。だから彼は危機感を持っていなかったのか。そういうことだろうとは思っていたが、まさか家族とのいざこざに巻き込まれようとは、さすがの篤も苦笑を浮かべるしかない。 しかし、異世界にやって来てここまで暢気(のんき)に暮らせるものだろうか。もし自分がアドレーの立場なら、今頃はパニックに陥っている筈だ。 アドレーのマイペースは筋金入りだ。 「あの、訊きたかったんだけどさ、縫いぐるみの姿のまま動けなかったの? たしか、俺の後を追ってファミリーレストランに行った帰りは動けたんでしょう?」 「――ああ。だが篤と出会うまでは動けなかった。縫いぐるみのままでも動けるようになったのはごく最近で……たしか篤が俺に名を与えてくれてからだ」 「え? そうなの?」 そこで篤は名前を付けた時、たしかにエンペンくんの目に輝きが宿ったことを思い出した。 あの時はてっきり気のせいだと思い直したが、まさか真実だったとは……。 「篤には感謝してもしきれないくらいだ。俺の一生涯の愛を君に捧げると神に誓おう」 「いいよ、そんな大したことはしてないし……」 「何を言う!! 俺は一生あの姿で暮らすのかと、どれだけ悲しみに満ちていたか。助けてくれた君は俺にとっての愛の女神、アフロディーテだ」 アドレーは大袈裟だ。女神に例えられ、力説されれば、もうどう切り返していいのかわからない。篤は苦笑した。 「それにしても、縫いぐるみにされたアドレーを売っていたあのお婆さんはいったい何者なんだろう。俺、店に行ってみたけど、跡形もなく消えていたんだ」 「おそらくは、あの屋敷ごと魔法がかけられていたんだろうな。ともすれば、彼女は父上の知り合いとも考えられる。ここ数日篤と暮らしていて気が付いたんだが、どうやら他人のために動こうとすれば魔法の効果は一時的に消えて元の姿に戻れるようだ。自分勝手なことをしようとすると魔法が発動し、縫いぐるみの姿に戻る仕組みらしい。……ややこしい魔法をかけてくれたものだ」 「でも、いくらお父さんがアドレーに魔法をかけたからっていって、心配しない親はいないと思うよ? やっぱり一度は帰った方がいいんじゃない?」 自分は今、アドレーと魔法について真剣に話している。現実味を帯びていないものを普通に受け入れられていることに、篤は内心驚いていた。 しかし、こうも魔法を目の当たりにしたのでは、もはや魔法の存在を信じるしかない。それに何より、アドレーという人物そのものが現実を超越しているのだから、魔法も受け入れてしまうのは仕方のないことだろう。 「篤は俺と離れても平気だと言うのか!? 俺は耐えられぬ!! 篤は俺にとってかけがえのない最愛の人だ!!」 篤はまたもやアドレーにきつく包容をされてしまった。 「あ、あのっ、でも、お母さんも心配してるんじゃないかな?」 「母上は、俺が七歳の時に重い病でこの世を去った。御霊は神の膝元にあるだろう。子供心に母上の病状を軽くできはしないものかと、薬草の勉強もしたのだが、ことはすでに遅かった。俺の家族は父上と、血の繋がらない後妻。そして彼女の連れ子――俺よりも五歳年下の義弟だ」 これまで自信に満ちた表情をしていたアドレーから、憂いが漂う。 どんなに自信に満ち溢れていても、アドレーも人の子だ。いくら昔のこととは言え、大切な家族が亡くなった悲しみは消えることはない。それは篤も母親を失っているからこそわかる痛みでもあった。 もしかすると、篤が感じた風邪に対しての反応が過剰に思えたのはそのせいかもしれない。アドレーにはアドレーなりの深い気遣いがそこに現れていたのだ。 篤の胸が、またもや締めつけられる。 アドレーの広い背中に両腕を回し、子供を慰めるようにして、彼の広い背中を撫でた。 「気に障るようなことを訊いちゃって、ごめん」 「いや、かまわない。もう終わったことだ」 篤に背中を撫でられているアドレーは、小さく首を振った。 「篤はご両親とは暮らしていないのか?」 今度はアドレーが篤に訊ねた。 「あ、うん。俺も、母さんは小さい頃に……。父さんは、都会が苦手らしくて、田舎の実家で気ままに暮らしているんだ」 「……そうか」 ふたりの間に哀愁が漂いはじめる。 しかし、それもほんの束の間にすぎなかった。篤は、話相手がアドレーだということをすっかり忘れていたのだ。 「では篤のご両親の分も俺が愛を注ぎ、開花させてやろう」 「はあ?」 どこからそういう話になるのだろうか。少しでもアドレーを見直した自分が馬鹿みたいだ。 篤はぽかんと口を開けたまま、呆気に取られて動けない。 「君は俺の最愛の人だ。生涯大切にする。篤は俺がいると迷惑か?」 「そんなことは……」 「ならば世話になるぞ」 篤が否定すると、すぐに頷く。 にっこり微笑み、遠慮というものを知らないアドレーはそう言った。 篤が何か言うその度におかしな返事が返ってくる。何も言い返す気力さえなくなった篤は、されるがままに任せた。 「だが、まだ体調が優れないようだ。もうひと眠りすると良い」 アドレーはひとことそう言うと、まるでそうすることが当たり前かのように篤を横抱きにして寝室へと運んだ。 そうして、アドレーの入念な看病のおかげで、篤の風邪は明くる日には治った。 ひょんなことから篤の家に居候することになったアドレーは、食事や洗濯といった家事全般を引き受け、留守を守ると篤に提案した。篤は、実は仕事が順調にいくようになってからというもの、少々家のことまで手が回らなくなってきたこともあり、アドレーの提案をふたつ返事で呑んだ。 アドレーの料理は逸品だ。どれも凝っていて美味い。少し料理本を見せれば、彼はすぐに習得し、アレンジをして篤を楽しませてくれる。 アドレーが言うには、薬草から薬を作るのにも同じような行程で、薬草もまた料理と同じで魔法では作れないそうだ。薬は少し分量を違えるだけで、効き目もまた変化してくるということらしい。 翌々日、見事に体調を回復させた篤は、グレーのスーツに身を包む。三日ぶりに会社に行くことにした。 「じゃあ、行ってくるね? 何かほしいものがあったら、メールでも送って?」 篤はアドレーに声をかけると、彼は大きく頷いて見せた。 アドレーはなかなか覚えが早い。だいたいの電気系統の扱い方を、篤が風邪で寝込んでいる間に覚えていた。今はネットにハマっていて、家にあるノートパソコンでこの世界のことについて色々検索をかけて勉強をしているらしい。メールだってお手の物だ。 「それより篤、あの男のことだが……」 「うん?」 言葉を濁し、そう言う、『あの男』とはいったい誰だろう。考えてみるものの、けれどもアドレーはこの世界に来てから縫いぐるみに変えられていた。篤以外で出会った人物といえば、ただひとりしかいない。それは篤が風邪で体調を崩した時、見舞いに来てくれた同僚の中根だ。 「中根のこと?」 篤が訊ねると、ややあってアドレーは深刻な面持ちで大きく頷いた。 「あの男には気をつけろ。篤に色目を使っていた」 「はあ? そんなことはないよ。中根はすごくモテるんだ」 これまでにないくらい真剣な表情だったから、いったい何を言うのかと思えば、アドレーは突拍子のないことを口にした。 中根は女性に人気で、ましてや男の、しかもダメダメ社員の自分には見向きもしないだろう。 それに篤にはなんとなく、相手が自分と同じ性癖を持つ――つまりはゲイかどうかをなんとなく嗅ぎ分けることができる。しかし中根にはそれが感じられない。きっとアドレーの思い違いだ。 篤が一蹴するものの、それでもアドレーはなかなか引き下がらない。 (そう言えば、中根にアドレーを見られているんだった) 新たに突きつけられた問題が、篤を襲う。 中根に深く追求されてはたまらない。彼には以前、アドレーと同居していることについて訊ねられたことがあった。まさか夢の中の美青年がペンギンの縫いぐるみだとは考えもしなかったから、おもいきり否定している。今さら、『同居することになっていたのを忘れていた』などと言い訳したところで、そう易々とは信じてくれないだろう。 しかも都合の悪いことに、彼は会社にも期待されているやり手の営業マンなのだ。本当のことを話したところで自分の頭がおかしいと思われてしまう。 中根から逃げなければ……。 篤は中根となるべく顔を合わさないよう、決意した。しかし中根とは同じ部署だ。いつまでも逃げ切れるとは到底思えない。掴まるのは時間の問題だ。 そしてその日はやはり来た。篤が正式にアドレーと暮らすようになってから一週間も経たないある日、順調に営業を回れた篤は、中根と帰宅がかち合い、とうとう掴まってしまった。 中根が開口一番に訊ねてきたのは、やはりアドレーのことだった。 「なあ、あの外国人。まだいるの?」 「アドレーのこと? いるけど、どうして?」 なんとかすっとぼけて、何でもない風を装うものの、内心は冷や汗ものだ。 篤は口角を上げ、無理矢理、微笑んでみる。 しかし、その作り笑いも中根の次のひと言で消え去った。 「あいつ、お前に色目使ってないか?」 「えっ?」 アドレーにも、中根が色目を使っていると言われなかっただろうか。 篤は耳を疑った。まさか中根にも同じようなことを訊ねられるとは思っていなかったのだ。 たしかに、篤は夢の中だと思っていた現実で、これまで想像上でしか味わえなかった快楽を経験したし、ディープキスだって何度もした。 しかし、どうしたことか最近のアドレーはそういった不埒(ふらち)なことをしてこなくなった。接吻も篤の風邪が治ってからというもの、すっかりご無沙汰だ。 それはつまり、アドレーが欲求不満だったということだろう。今は人間の姿に戻っているし、好き勝手に動ける。縫いぐるみだった頃とは違い、自由に相手を選べるだろうし、篤の知らないところでそういう営みだってできる。 篤にしたようなことを、好みの相手を見つけてアドレーが組み敷く……。 (はあ? なんだよそれっ!!) 自分のことを、『好き』とか、『妻』だんて言っておいて、他の人に手を出すなんて、アドレーはなんと節操のない男だろうか。 篤の想像上で、あたかもそれが現実に起きているかのように、アドレーの不実の罪ができていく。 ……胸の中がモヤモヤする。 (……なんか、ムカつく……) 「……別に。俺は男だし、そういうの有り得ないだろう。馬鹿なこと言うなよ」 すっかり不機嫌になった篤は中根を怒りを投げつけ、足早に帰路へと向かった。 「おかえり、今日は早かったのだな」 篤が玄関のドアを開けると、今一番会いたくないと思っていた人物が目の前に立っていた。 服装は、もう純白の王子服ではない。アドレーにと通販で買ってあげた、グレーのVネックニットに、カーゴパンツだ。 余分な筋肉を持たない、引き締まった肉体美のラインを魅せるVネックニットと、カーゴパンツが足の長さを強調させている。アドレーはこちらの世界の服装でもイケメンっぷりを披露していた。 彼はその姿で、アドレーはいったい誰と会っていたのだろうか。 相変わらずの格好良さに、篤の怒りは増す一方だ。 「別に……早く帰宅したら都合の悪いことでもあった? ああ、誰かと一緒だったんだ? それはごめんね、気が利かなくってっ!!」 怒りは治まらない。篤は早口で暗にアドレーを責めた。 「篤? いったい何を怒っている?」 「別に、怒ってないよ」 (怒っているかだって? ふざけんなっ、自分の胸に訊いてみろよっ!!) 怒っているかと訊ねられて、いったい誰が怒っていると素直に言えるだろうか。アドレー本人から篤が不機嫌な理由を訊ねられたことで、怒りはさらに増す。 篤はアドレーを通り過ぎ、寝室に入った。ドアを閉めようとしたものの、アドレーは長身だ。しかも足が長い。足早に寝室へと入った篤の横に、ぴったりとついてくる。自分は篤と違って格好いい。そう言われているようで、また腹立つ。 「ならば何故、俺の顔を見ようとしないのだ、篤?」 尚も食い下がってくるアドレーに、篤はとうとう顔を上げた。ものすごい剣幕でアドレーを見る。 「他の相手を抱いていた奴の顔なんて見たくない!」 篤が言うと同時に、部屋の明かりが点いた。アドレーがスイッチに触ったのだろう。篤の表情が明らかになる。自分が今、どういう表情をしているのか、眉間に皺が寄っているのがよくわかる。それだけ篤はアドレーに怒りを感じているのだ。 「篤? いったい何を言っている?」 「うるさいなあっ! もう放っておけよっ!!」 対するアドレーは、篤が怒っている理由がわからず困惑するばかりだ。 今朝方は何事もなく篤と話していたのに、帰宅するなり怒鳴りつけられ、もう何が何なのかよくわからない。 アドレーもまた、篤と同じように眉間に皺が寄っていた。 「篤?」 三度、アドレーが訊ねる。 だが篤は、今は誰とも話す気にならない。とにかく苛立ちが先立って何も考えられないのだ。 篤は分厚い胸板を押して、アドレーを遠ざける。 「篤!!」 「ん、っううっ!?」 しかし、彼とは体格差がある。篤よりもずっと力が強かった。勢いよく引っ張られたかと思えば、篤の唇がアドレーの唇によって塞がれた。 「や、やめっ」 篤が胸板を押して抵抗した時には、すでにベッドに組み敷かれていた。 アドレーの片方の手が、篤の両腕を拘束する。 「何故だ? 以前はあれほど俺を欲してくれていたというのに……。何故、俺を拒絶する? 何故、怒っている? 俺は君に何かしたのか?」 アドレーとキスができたのはすべて、彼が夢の産物だと思っていたからに過ぎない。アドレーが現実に存在するとわかれば、恥ずかしすぎてキスだってできない。 篤が怒っているのは誰かを抱いたかもしれないその腕で、自分も同じように抱かれたくはないと思ったからだ。 「アドレーとは、もう何もしないっ!」 篤は首を振り、アドレーを拒絶する。 しかし、両腕を押さえ込んでいる彼の力は強く、篤には逃れる術はない。 「俺はそれを望まない。篤もそうだろう?」 空いているもう片方の手が、下着をくぐり抜け、篤の素肌を撫でた。乳首に触れる。 摘まれれば、篤の乳首は喜々として、ツンと尖っていく。 「あっん、いやっ、やっ」 少しの間、忘れかけていた甘い疼きが篤の身体を襲う。 「小さいのに、尖って強調している。俺の手に良くなじむ」 乳首が指の腹で転がされ、引っ張られる。 アドレーの指の動きに合わせて、篤の乳首が従順に動く。 ただ乳首を触れられただけなのに、篤の下半身が熱をもち、身をもたげはじめる。 「っは、やっ……」 「嫌だと言うわりには、ココはもう膨れているが?」 両乳首から離れたかと思えば、アドレーはズボンの生地を押し上げている篤の一物に触れた。 「っは、うっ」 ズボンの上から陰茎を握られ、びくんと腰が跳ねる。アドレーに自分の大切な一物を握られてしまえば、もう何もできない。まさにまな板の鯉状態だ。 「喘ぐその声もまた、実に可愛らしい」 ジリジリとジッパーが下ろされる。すると解放を待ちわびていた篤の陰茎が勢いよく飛び出した。 アドレーは構わず、篤の一物を口に含んだ。 ねっとりとした口内に収められ、陰茎が大きく膨らんでいく。 舌を這わされれば、ぶるぶると震えた。 「うそっ、っは、ああぅ!!」 言い知れない強烈な痺れるような感覚が篤を襲う。 舌を這わされるたびに水音が生まれ出る。先端からは、歓喜に打ち震えた悦びの先走りが流れはじめている。 気持ちがいいとは思うものの、アドレーに快楽を植え付けられたことによる羞恥の方が増す。 「っひ、や、やだっ、アドレーッ!!」 篤が必死に拒んだ瞬間だった。陰茎を含んでいた口が消えた。 見下ろせば、そこにアドレーの姿はなく……。 あったのは、肌触りのいい生地に、黄色いクチバシを持つエンペンくんだった。 どうやらアドレーの父親がかけた魔法が発動したようだ。 「すまない。本当に嫌がっていたとは思わず……その……篤は、俺のことが嫌いになったのか?」 項垂れる皇帝ペンギンが可愛い。 もちろん、アドレーが嫌いということではない。そもそもアドレーが自分とは違う人を抱いたと思ったからこそ、そういう態度を取ったわけで……。 いや、待て。これでは自分がアドレーのことを好きみたいではないか。 まさか自分はアドレーのことを好きだというのか。 たしかにアドレーは篤の理想の男性だ。けれどそれは容姿であって、中身ではない……筈だ。けれど、彼が篤にしたように、他の誰かを抱く姿を想像することですら、腹立つ。 それはつまり……篤がアドレーを好いていることに間違いはなかった。 (まさか……) 篤は生まれ出た自分の感情に驚きを隠せない。 「嫌いじゃない。ごめん、俺――俺がいない間に誰かと会って、アドレーが俺じゃない他の人とこういうことをしたんじゃないかって思ったんだ……」 なにせ自分はこんな容姿だ。見目麗しい一国の王子が自分なんかを相手にする筈がない。篤はそう決め込んでいたのだ。 だがこの言い方はおかしい。これではまるで告白だ。篤は思っていることを口にすると、急に恥ずかしくなった。 アドレーに組み敷かれた時とはまた違った意味での熱が篤の身体に宿る。 「それはない。俺が篤に手を出さなかったのは、病み上がりだし、無理をさせてはならないと思ってだな……。篤以外の人間とどうこうというのは考えていない。篤……神に誓おう。俺には篤だけだ」 「じゃあ最近、俺にキスしなくなったのは……?」 ……なんだろう、この質問は。これは彼女が彼氏に嫉妬する時に使う文句ではないか。 篤はまた戸惑う。 「篤を組み敷くと、君をひと息に奪ってしまいたくなって、制御がきかなくなるからしなかった。……なんだ、篤は接吻をしてほしいのか?」 「ちっがあう!」 恥ずかしい。アドレーと情を交わすなど有り得ない。しかしアドレーが自分以外の誰かを抱いてほしくないとも思っているのはたしかだ。 なんとも複雑な感情だ。 篤がキスさえも拒絶すると、エンペンくんの目が悲しそうに潤んだ。 「っつ!!」 (ああっ、そんな顔をしないで……) 瞳を潤ませて見上げるエンペンくんが可愛い。 泣かなくていい。慰めてやりたい。 エンペンくんが涙ぐむその姿は篤の保護欲をかき立てる。 (ああ、もうダメだっ!! 可愛すぎるっ!!) 篤は、縫いぐるみのアドレー――いや、エンペンくんを強く腕に掻き抱いた。 「っ可愛いよ、エンペンくんっ!! 君を嫌うなんて有り得ない! 俺も君が大好きだっ!!」 篤はエンペンくんを離すまいと、必死に抱きしめ続ける。 「……複雑だ。この姿なら、篤は抱きしめてくれるのか……」 不服そうにぽつりと呟くエンペンくんだが、愛くるしい縫いぐるみを強く抱きしめる篤にはもう何も聞こえていなかった。 |