メルヘンに恋して。
第二章





chapter:彼は異世界からやって来た王子様 {emj_ip_0793}




(一)



 次に篤が目覚めたのは、腹の虫が鳴った時だった。

 空腹を訴える腹を擦りながら身体を起こせば……。

「腹が減ったか?」


 突然、隣から有りもしない声がした。

「へ? うわっ? えっ、えっ、アドレー? なんでっ!? 俺、夢? あれっ!?」

 目の前には、夢の中で何度も会った、篤の好みドストライクの抱かれたい理想の美青年アドレーが、きちんと服を着て、隣にいるではないか。

 篤は今も夢を見ているのかと強く頬を抓(つね)り、確かめてみる。

「……い、ひゃい」

 痛みはたしかにある。

「何をしている?」

 目の前では首を傾げ、訝(いぶか)しげに自分を見下ろす凛々しい彼がいる。

 頬をきつく抓ってみても、一向に変わらない景色。

 なぜ、夢の中の彼が現実にいるように見えるのだろう。

 やはりアドレーは幽霊で、自分を取り殺そうとしているのだろうか。

 彼が幽霊ならば、足下は透けて見えるのではないか?

 しかしおかしい。どうやっても透けているように見えない。どこからどう見てもアドレーはこの場所に生きているように見える。

 篤はためしに、アドレーに抱きついてみることにした。

 恐怖に襲われながらも、たくましい腰に、「えいっ」と勢いよく腕を巻き付ければ……。

「あれ? あたたかい……」

 ますます困惑を隠せない篤は、アドレーの胸元で何度も瞬きを繰り返す。

 聞こえるのは、アドレーの心音。

 トクン、トクンと鼓動する心臓も、やはり生身の人間がなせる技ではないのか。

「篤は奥ゆかしそうに見えて、実はなかなか積極的なのか……。俺は嬉しいぞ」

 アドレーは感激しているのか、篤の腰に腕を回し、双丘を撫でた。

「うわっ! えっ? ちょっ、どこ触って!! やあんっ!!」

 アドレーに快楽を植え付けられてしまった身体は、彼に触れられるだけですぐに感じてしまう。

 篤は嬌声にも似た甘い声を出した。

「こうして現実でも俺の姿のまま、可憐な君に触れられることを心から感謝するぞ」

 頬を擦り寄せ、いまだ双丘を撫でるアドレーの言動に、困惑は増すばかりだ。

「…………」

 どういうことなのか、さっぱりわからない。

 自分の意識があったのは、たしか朝ではなかっただろうか。窓の外に視線を移せば、そこはすでに夕焼けが広がっている。気温は秋ということもあり、日中よりもやや肌寒い。

 自分の身体を見下ろせば、そこに上着はなく、ベルトを取り外されたズボンとカッターシャツ姿だった。

 こうしてパニックに陥っていても仕方がない。篤は今朝の出来事から順を追って記憶を辿ることにした。

 たしか……今朝はいつもより身体が重く、それでもアポイントメントを取っている商社があるからと、出社しようとした。

 けれど玄関前で力が抜けて倒れてしまい――。たしかそこでアドレーを見た気がする。
 彼はどこからやって来たのかはわからないが、自分を寝室まで運んでくれたのだろうか。

 篤は改めて自分の部屋を見回した。

 そこでベッドにはあるはずの、あるものがないことに気がついた。


「あれ……エンペンくん……は?」

 篤がぽつりとお気に入りの縫いぐるみの名を口にすれば、目の前の美青年アドレーは眉間に深い皺を刻んだ。

「……あれは、俺だ」

 アドレーが言いにくそうに口を開く。それは如何なる時も自信満々だった彼が、はじめて顔をしかめた瞬間だった。眉間には深い皺が刻まれている。

 意外な一面を発見してしまった篤の胸が大きく高鳴る。しかし、それもほんの一瞬のことにすぎない。

 なにせ目の前の彼は縫いぐるみが自分だと言い張っているのだから。


「はあ? 魔法? 魔法って、何もないところから、パッと物を出したり、キラキラ音がするやつ?」

「キラキラ……? 音、はどうだろうか。よくはわからないが、空気中に存在する、光沢状に光り輝く小さな粒子から想像し、物質を出現させる。話せば長いんだが……もちろん俺は現実世界に存在する。魔法で縫いぐるみに姿を変えられたのだ。俺の正式の名は、アドレー・アイヴァイン・レイノック・グラシオス・ラティオン。グラシオス・ラティオン王国の第一王子だ。この国の住人ではない」

「はあっ?」


 もはや意味がわからない。篤は混乱する頭をかかえ、うずくまった。

「えっと、じゃあ、やっぱりファミリーレストランで俺の後ろにいたのも、俺が酔いつぶれた時に迎えに来てくれた時も、全部、貴方の仕業だったの?」

「うむ。レストランというのか、あそこは。どういうことかは判らんが、縫いぐるみの姿から元の美しい俺に戻れたから、お礼に篤の手助けをしようと思ったんだが……効果が切れてしまってな。縫いぐるみの姿に戻ってしまった。あの時はどうやって帰れば良いのかと焦った」

 それでも木の陰やらに隠れ、なんとか帰宅できたのだと、アドレーは苦笑した。

「二度目に元の姿に戻れた時は、篤の帰宅がいつもより遅かったので、心配していたのだ。あれは上手くいってよかった。俺は篤を抱えていたからな。そのまま縫いぐるみの姿になっていたなら、帰宅することもできなかっただろう」

「あ、あの時は、どうもありがとうございました。……って、見間違いじゃなかったのかよっ! なんなの? 意味わかんない。縫いぐるみが王子様だとか。購入した店に行っても、店自体が消えてるし……」

 篤は頭を抱えたまま、唸り続ける。また、熱が上がってきたようだ。息苦しい。

「気が動転するのも無理はない。まあ、これを飲め。カミツレとレモングラスを煎じた茶だ」

 どこから取り出したのか、アドレーは中世ヨーロッパを思わせる、高額そうなティーセット一式を篤に差し出した。

 ティーカップの中には、アドレーが言ったとおり、綺麗な黄色のお茶が入っている。

「……カミツレ?」

 あまり聞いたことのない名前に首を傾げ、匂いを嗅ぐと、お茶からふんわりと立ち上る湯気に乗り、優しい香りが鼻孔をくすぐった。

 嗅いだことのある、この香り。これは……。

 篤はひと口、お茶を含んだ。

「これって、カモミール? おいしい……」

 多少の苦みはあるが、口いっぱいに甘いアップルの香りがほのかに広がる。

 そういえば、カモミールは、薬草名ではカミツレと呼ばれていなかっただろうか。


「花の部分を使うのだ。カミツレは、我が国では治療薬と名高いもので、発熱や風邪、鎮静効果もある。しかも、気分も和らぐという、優れものだ。常備しておいて良かった」

 アドレーは目を細め、嬉しそうに微笑んだ。

 やはり、アドレーはとても見目麗しい。

 カモミールティーを飲んだというのに、鎮静効果は得られそうにない。篤の体温は高くなる一方だ。挙げ句の果てには、動悸までしてくる始末だ。夢にまで見た美青年が目の前にいるのだと思うと、胸がキュンと鳴る。


(……どうしよう。アドレーが現実世界の人間だったなんて……こんなの反則だ。あれ? ちょっと待てよ? アドレーに色々されたんだよな)

 篤は、アドレーには抱かれていないものの、前座までしている。恥ずかしい行為を思い出した。

「篤?」

「っ、うわあああああっ!!」

 耳元で名を呼ばれ、頭まで毛布を引っ被った。恥ずかしくて目も合わせられない。

「篤? すまない、混乱させるつもりは……」

 アドレーは、ただの縫いぐるみだと思っていた自分が篤の前に現れたことで、よほどの衝撃を与えたと思ったらしい。布団にくるまり、羞恥に耐えている篤に謝る。


 だが、篤は、アドレーが異世界からやって来たとか、王子様だとか、どうでも良かった。


(頼むからひとりにしてくれっ!!)

 心の中で声を大にして叫ぶ。

 そんな篤の願いが天に通じたのか、ちょうどタイミング良くインターホンのチャイムが鳴った。

 篤はこの機会を逃す手はないと、アドレーから逃げるようにして、部屋を出た。

 果たして微熱がいまだに消えない篤が勢いよく玄関へと走り込み、ドアを開けると、公共用廊下にいたのは会社の同僚の中根だった。

「中根?」

 助かったとは思うものの、危機から脱したとは思えない。なにせ、今、自分の家にはグラシオス・ラティオン国の王子、アドレーがいるのだから……。

 これをどう言い訳するべきか……。

 頭が重いのは、微熱があるからなのか、それとも異国の王子がいるからなのか。今の篤にはもうわからない。


「よっ、今日出社してなかったから、心配で見舞いに来たんだ。桐野、身体は大丈夫か?」

「ああっ……!」

(しまった!!)

 中根の言葉で篤は頭を抱えた。さらに強い頭痛を感じる。

 それというのも、篤は今日初めて無断欠勤なるものをしてしまったのだ。

 業績が悪い分、せめて無断欠勤や遅刻をしないようにと頑張ってきた。これでは今までの苦労すべてが水の泡だ。


「ああ、会社のことなら大丈夫だぜ? 部長は、桐野がひとり暮らしだっていうことは知っているし、もし、桐野が風邪で倒れているなら報告してくれって言われたんだ」

「……そっか。迷惑かけてごめん。明日は出社するよ」

「いや、やめておけ」

 中根が顔をしかめた。咎(とが)めるような目で見られる。

「お前、ここ最近働き過ぎ。どうせ風邪でもひいたんだろう? この際だし、もう少し休んでおけよ。部長には三日間休むと伝えておくから」

 さすがは中根だ。できる奴はこうも周りが見えているのか。たかが自分の出勤状況までも把握しているとは……。なかなかできる芸当ではない。

 中根のできる様をまざまざと見せつけられ、頭が上がらない。

 中根は休めとそう言うが、しかし、いくら部長からも欠勤の許しを得たとしても、自分が行ったことはけっして許されるものではない。篤の背中は、申し訳なさでいっそう丸まっていく。

「……忙しい時期なのに、休んじゃって、ごめん……」

 すっかり恐縮してしまった篤の肩に、力強い中根の手が乗った。風邪で弱っているせいか、涙もろくなっている。励まされ、瞼がジン、と熱くなる。

 篤が自分のダメさ加減に落ち込み、項垂れていると、今まさに中根に見られたくない人物が、両肩に触れた中根の手を振り払うように押し退けた。

 アドレーだ。

「篤、夕方は冷える。風邪が悪化する」

 身体がぶるりと震えたのは、外の寒さなのか。それとも中根にどう説明すれば良いのか困っているからなのか。もしくはその両方なのかもしれない。篤が震えると、アドレーが上着を着せてくれた。

 アドレーが傍にいると、心なしか自分の悩みがちっぽけに思えてくるから不思議だ。それは王子のなせる技なのか。

 よくはわからないが、根拠のない自信を与えてくれるのだ。


「こいつって……。たしか飲み会の時、桐野を迎えに来た……」

「えっ、あっ、あのっ!! うん、親戚……」

 訊ねてくる中根に、篤は咄嗟のひと言を口にした。もちろん出任せだ。篤の親戚はいるにはいるが、都内にはいない。

「はあ?」

 しかしながら、自分は日本人だ。アドレーが外国人容姿だったことをはたと思い出した。急いで付け加える。


「親戚……の、親戚の、そのまた親戚の知人で、今、ちょっとした日本旅行に来ているんだ。泊まる所がないっていうから、家に泊めてるんだよ」

 我ながらなんとも苦しい言い訳だろうか。

 篤は自分自身にツッコミを入れた。

 おかしな汗が流れているのが自分でもわかる。

 中根も、見え透いた篤の苦しい言い訳に困惑を隠せないらしく、口をあんぐりと開けている。

 しかし、ここで篤が、『実は、彼は異世界からやって来た住人なんです』なんて言ったところで、信じてもらえないどころか、自分の頭がおかしいと思われるのは目に見えている。

 アドレーが魔法の国の王子だということは何としてでも隠し通し、話を逸らさないと――。

 けれど篤には偽りをさも本当にあったことのように説明する話術など、あいにく持ち合わせてはいない。


「っと、とにかく。中根、今日は来てくれてありがとう。じゃあねっ」

「あっ、おい、桐野っ!!」

 中根に突っ込まれ、詮索されてはたまらない。なにせ彼は、ムードメーカー的な存在なのだ。会社でなんらかの影響を与えられ、出社し辛くなれば、すべてが終わる。篤は、中根が何か言いかけていたのにもかかわらず、さようならを告げて、勢いよくドアを閉めた。


(ああっ、もうどうしようっ!!)

 次に自分が出社した時、中根にどう説明をすべきか。

 あの様子では、おそらく彼は並大抵な説明では納得してくれないだろう。
 胃がキリキリ痛み出す。

 精神的ダメージと、それから風邪の怠さもあって、閉ざしたドアにもたれかかった篤の身体が、ずるずると崩れ落ちる。

「篤、ここは寒い。また熱が出るぞ?」

 隣に立つアドレーは、篤が抵抗する隙も与えず、丸まった身体を横抱きにして、篤の部屋のベッドまで運んだ。彼の紳士な対応に、篤の胸がふたたびキュンと締めつけられる。

 アドレーは、この世界の住人ではないという以外、何もかもが篤の理想像そのものだ。

 胸が大きく高鳴り、『ありがとう』さえも言えない篤は、初めて恋を知った少年のようだ。アドレーを見ることができず、俯いてしまう。

 寝室には沈黙が生まれた。

 日が陰り、肌寒さも増す。篤は沈黙に耐えられず、何を話題にすべきかと思案する。

 営業部のくせに会話術がなっていないダメっぷりがここでも発揮されるなんて、いったい誰が予測できただろう。篤は自分のダメさ加減にほとほとうんざりしてしまい、落ち込む。

 おかげで、沈黙の中に重たい空気が入り交じる。そしてさらに、事態は深刻化した。

 それは篤の腹がふたたび空腹を訴えたからだ。沈黙を破ることはできても、それはほんのひとときにすぎない。篤は気恥ずかしさでいっぱいになり、ますます口を閉ざしてしまった。

 沈黙の中に、さらに重苦しい雰囲気が入り交じる。甚(はなは)だしく居心地が悪い。

 だが、それさえもアドレーにとって、気にするようなものでもなかったようだ。さすがは一国の王子とでも言うべきか。彼は重い沈黙に終止符を打った。


「うむ、リゾットでも作ろうか」

 アドレーは誰に言うでもなく頷くと、呪文のような何かを呟き、胸に手を当てた。

 しかし、『作る』とはいったいどういうことだろう。

 アドレーは目を閉ざし、ベッドに腰を下ろしている篤の前で跪(ひざまず)いたまま動かない。彼が料理をする気配はない。それどころか、キッチンにすら向かわない。これでは料理をしようにもできないのではないか。

 篤は、一向に動く気配がないアドレーを前にして困惑を隠せない。

 そういえば、このお茶ってどうやって出したのだろう。ヨーロッパ風な高貴なデザインのティーセットも、もちろん、自分の家にはない代物だ。

 今さらながらに様々な疑問が浮上する中、どこから生まれたのか、虹色に輝く小さな粒子がアドレーの指に集まり、目映いほどの光を放ちはじめた。

 外はすでに薄暗く、夕日が沈みかけている。当然、虹色の光を放つものなんて周囲には見当たらない。

 まさか、これこそが、アドレーの言う、『小さな粒子から想像する』という魔法なのか。


 ――ああ、けれど彼はとても格好いい。長い睫毛は濡れているようにも見えるし、すっと伸びた高い鼻梁。

 男らしい大きくて薄い唇だって、とても魅力的だ。もう一度、あの唇に塞がれたい。たくましい腕に包まれ、彼のぬくもりを感じたい。

 篤は恥ずかしいという気持ちも忘れ、食い入るようにして、目の前にいる異国の美しい王子に見惚れた。

 それは一瞬の出来事だった。

 ほんの数秒前まではなかった彼の手には、またまた高価そうな真っ白い器があり、湯気が立ちこめている。

 朱色に近いソースはトマトだろう。独特の甘酸っぱさと、チーズの香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。とても美味しそうだ。



(本当に魔法を使えるんだ……)

 篤は、非現実的な事実を目の前に突きつけられ、魔法の存在を改めて思い知らされた。

「篤を想い、作った。どうぞ召し上がれ」

 アドレーはスプーンまで創造したらしい。篤に差し出した。

 恐る恐るリゾットを口に運び、噛みしめる。

 ……味は、美味しいとは思う。

 しかし、何かが足りない。


「どうした? 不味かったか?」

 なんとも言えない表情をした篤に、アドレーが問う。

 まずいことはない。だが、一手間をかけるからこそ、料理という物は楽しいし美味しいのではないか。

 料理とは、心を体現したものだと、篤はかねてから思っていた。手間暇をかけてこそのものなのだ。

「美味しいよ? でも、あ、あの。魔法より、手作りの方が、やっぱり心がこもっているっていうか……」

「心を、こめる?」

 アドレーは、不可思議な異国語を聞いているように首を傾げ、篤の言葉を反芻(はんすう)する。

「あ、俺。今から少し作ってみるよ」

「いや、しかし。篤はまだ熱が……」

「う〜ん、今は平気みたい」

 たしかに、頭や手足はいつもより重く感じる。体調は、けっして好調とは言えない。けれど、今は風邪よりも、アドレーに美味しいものを食べさせてあげたかった。なにせ、篤は独り身だ。自分が作った料理を誰かに食してもらう機会なんて、なかなかない。

 誰かと一緒に食事をするというのは、とても楽しい気分になる。ましてや、自分が作った料理を食べてもらう感激は一入(ひとしお)だ。

 篤は、多少はまだ微熱があるのだろう、怠い身体で立ち上がり、今朝、食欲がないからと炊いただけのご飯を取り出し、冷蔵庫に作り置きしているだし汁を使ってお粥を作ることにした。


 斯(か)くして、出来上がったお粥をリビングまで運び終え、篤とアドレーは仲良くソファーに座った。

「これは美味だ。篤は魔法を使えるのか?」

 お粥は至ってシンプルで、卵とネギを加えただけのものだ。――にもかかわらず、アドレーは、まるで高級イタリア料理でも口にしているかのように、麗しい両目を閉ざし、食している。その様はとても絵になっていた。

 たかがお粥ごときをそこまで噛みしめて食べてくれるなんて、なんだかとても胸がくすぐったい。

「魔法なんてものは使えないよ。この世界の人間なら、誰だってできるもの……」

「そうなのか!? 俺も作ってみたいのだが、伝授してもらっても良いか?」

 アドレーは口の中にあるお粥を思う存分味わった後、飲み込んで、胃の中に送り込む。

 閉ざした目を開くと、レンゲを手にしたまま、篤が作ったお粥をじっと見つめている。興味津々といった感じだ。


 凛々しい王子様は時として可愛らしくもあるのだと、篤はついつい口元を緩ませてしまう。

「伝授、するようなものでもないけれど……こんなので良かったら、いつでもどうぞ」

 それから篤は、アドレーにコンロの使い方や電気ポットの使い方を教え、家にある料理本を渡した。

「これで、篤と同じような味が出せるのか?」

 新しい玩具を見つけた子供のように目をキラキラと輝かせる彼は、本当に可愛い。


「アドレーなら、きっとすぐにできるよ」

 篤は大きく頷いてみせた。

 その後、篤が、「くしゅん」と、たった一度限りのくしゃみをすれば、アドレーは顔をしかめた。

「さあ、もう寝よう。無理をさせすぎたようだ。すまない」

 アドレーは、そうするのがさも当前だと言うように、篤を横抱きにして、寝室に進む。

「あ、あのっ! アドレー?」

 抗議する間もなく、ふたたびベッドに下ろされた篤は、問答無用で横にされ、今度はきちんと毛布を掛けられた。

「今日は少し無理をさせてしまった。明日からは俺が料理とやらを作ってみよう。ゆっくり身体を休めるがよい」

 アドレーの、病人に対する気遣いは行過ぎているような気がするのは、自分の気のせいなのか。とれとも、王子なら、皆、誰しもがこのように相手を気遣い、敬うものなのか。一般人のダメダメ会社員には図りかねない。

 だが、アドレーはとても思いやりのある人物だということだけは確かだ。

「おやすみ、篤」

 額に口づけを落とされれば、身体中が火照る。

 ドクンと心臓が跳ねる。

「あの、アドレーは?」

 寝る場所はどこを使うのだろうか。

 今までは、縫いぐるみだったから篤と同じベッドで休めたが、篤がこの状態ではそれも難しい。風邪をうつしては大変だ。


 自己申告だが、彼は王子だと名乗っている。たしかに、アドレーの服装は王子様使用だ。

 白地のブラウスに、銀の刺繍や、こまやかな装飾のボタンを施してある高価そうな白のローブとパンツ姿で、とても様になっている。

 仮に、アドレーが王子ではなかったとしても、見目麗しい青年であることには変わりない。その彼に無体なことはできない。だが、残念なことに、篤はひとり暮らしで、片親とは離れて暮らしている。話し上手でもないし、友人と言える人物もいないから、ベッドもひとつしかないし、敷き布団なんていうものも存在しない。


「俺のことは気にするな。まさか病人の篤と共に寝ることもできないし、もうひとつの部屋にあるソファーを使わせてもらおう。ゆっくり眠るが良い」

 篤が考えていることを理解したアドレーは、ひとつ頷いた。

 彼はテレビがずっと気になっていたらしい。会社から帰宅した篤の隣で、エンペンくんとしてテレビを見ていたのだと言う。

 篤は、アドレーがテレビを見ながら、ソファーでうたた寝をしている姿を思い浮かべた。

 その光景はどこか可笑しい。

 まあ、この世界に魔法の国からやって来た王子様がいること自体が可笑しいものではあるのだが――。

 それにしても、この現実味がない光景はいったいどこからきているのか。

 目の前の金髪美形王子様をまじまじと見つめれば、可笑しいのは彼が着ていた服装だということに気がついた。アドレーの煌(きら)びやかな衣装では、さぞや寝にくいだろう。

 そこで篤は、箪笥(たんす)の中にある、大きめのパジャマがあるのを思い出した。通販で買ったものなのだが、寸法を間違えたらしく、大きすぎた代物だ。捨てるのももったいないし、パジャマだからと置いていたのが今になって役立つとは、当初は考えもしなかった。

 篤は、件のパジャマをアドレーに渡し、彼の言葉に甘えて眠ることにした。

 身体は疲れていたのか、ベッドに入るとすぐに意識は落ちた。しかし、一度は眠ったものの、やはりアドレーが気になるのも事実だ。すぐに目が覚めてしまった。

 篤は、アドレーがいるリビングに行き、様子を窺えば、彼はソファーの上で足を投げ出して眠っていた。篤が渡したパジャマを着ているその姿が、不似合いで、妙に可愛い。

 毛布も魔法で出したのか。けれどもそれは長い足の下にずれ落ちている。やはり背の高い彼がソファーで眠るには無理があるようだ。

 そういえば、アドレーはなぜ、この地にやって来たのだろう。そもそも、なぜ、縫いぐるみに姿を変えたのか。そして、縫いぐるみやら人形を売っていたあの店はいったい何なのか。あの老婆はいったい何者なのだろうか。

 いや、アドレーはたしか、『縫いぐるみに変えられた』と言っていた。第三者の何者かに命を狙われているということなのか。

 なにせ彼は一国の王子だ。もしかすると、何らかの事件に巻き込まれ、生死を分かつような戦があったのかもしれない。

 だとすると、その人物は、縫いぐるみのアドレーを販売していた、あの老婆なのか。

 もしそうなら、命を狙われている彼と一緒にいる自分はいったいどうなるのだろう。

 聞きたいことはたくさんある。

 だが、篤はいまだ、微熱があるし、アドレーだって、ぐっすり眠っている。

 彼の雰囲気からして、特に危険な目に遭っている様子も感じられない。

 明日、アドレーに話を聞いてみよう。

 篤はあれからひと眠りしてゆっくりできたのか、身体の怠さも消えている。

 今のこの調子なら、明日はきっと体調も大分回復しているだろう――。


「…………」

 しかし、アドレーは不思議だ。

 本来ならば、パニックになるところなのに、今の自分はとてもリラックスできている。

 非現実的なことを目の当たりにしても冷静だ。いつも些細なことでパニックになっている自分にしては珍しすぎる。


(アドレーといると、本当に不思議だ。傍にいるだけで、根拠のない自信が溢れ出てくる。それに、すごく落ち着く……)


 篤はアドレーに毛布を掛け直してやると、点けっぱなしになっていたテレビを消し、自室に戻った。


 ――その日、やはりとも言うべきか。篤はアドレーの夢を見なかった。





- 9 -

拍手

[*前] | [次#]
ページ:

しおりを挟む | しおり一覧
表紙へ

contents

lotus bloom