メルヘンに恋して。
第二章





chapter:異世界からの来訪者。




(四)



 時刻は午後六時。
 秋の空は変わりやすい。今朝も透明度が増した真っ青な空が広がっていたというのに、今はこのとおり。分厚い灰色の雲が空を覆っていて、今にも雨が降り出しそうだ。
 天気予報での降水確率は、たしか、夜から深夜にかけて五十パーセントと言っていたが、このところ、天気予報も当てにならないから、さして気にすることもなく、傘を持たずに出社した。
 ……のだが、この天気は、本格的に降り出しそうだ。
(早く帰ろう)
 営業の仕事も順調に終わらせた篤は、急いで家路へと急いだ。
 しかし、会社を出てから帰路へと向かう途中。五分と経たないうちに、灰色の空から雫が落ちてきて、いよいよ雨が降り出しはじめた。
 本降りになる前に、なんとか帰りたい。急ぎ足になる篤の前に、ここら辺では滅多に見ない、金髪美形男の姿があった。
「篤、良かった。天気予報では雨が降ると言っていたが、傘を持っていなかっただろう?」
 にっこり微笑むアドレーが眩しい。空は灰色に染まっているというのに、彼が笑みを浮かべるだけで、その空間だけが輝いているように見える。
『天気予報』や、『傘』などと、魔法の世界からやって来たアドレーの口から出た不自然な言葉も、今なら当然のことのように聞こえるから不思議だ。
 アドレーはとても勉強家で、今ではこの国のことを篤以上に知っていた。
「傘は一本しか見当たらなくてな、ないよりはまだマシかと、迎えに来た」
 ここのところ、アドレーは何故か魔法を使わなくなった。というのも、この国にあったニーズで過ごしたいというのが彼の考え方らしい。
 彼はしなくとも良い手間を惜しみ、わざわざ傘を探して迎えに来てくれた。
「ありがとう」
 アドレーの行為が嬉しくて、普段なら、なかなか口にできないお礼が言える。
 アドレーは、そうすることが当たり前のように、篤の肩を引き寄せ、ひとつの傘に二人、並んで歩く。
 本来の篤ならば羞恥に襲われるものの、今はそうではなかった。
 雨はいよいよ降ってきて、灰色に染まった分厚い雲からは、無数に落ちてくる。
 何筋もの絹糸のような細かい雨が、さわさわとアスファルトに触れて弾ける。
 植物の葉に雫が触れて、静かな雨音を紡ぎ出す。その音はとても心地良い。日々の忙しさでざわついた篤の心に弾けて消えていく……。
 雨水を含んだ優しい土の匂いが、鼻孔をくすぐる。
 突然の雨ということもあってか、周囲には人の姿はない。無人状態だ。おかげで篤も、何時になく素直になれた。
 力強い腕に肩を引き寄せられ、胸が高鳴る。
「しかし、この国は面白いな。このような天気に雨が降るのか」
 感慨深い様子で、アドレーは頷いた。
「アドレーがいた世界では、雨は降らないの?」
「降るには降るが、このような多い雨量ではないな。空も一年中青空を見せながら、雨が降る。そうだな、篤の世界で言うところの、『狐の嫁入り』という天気に近いだろうか。晴天なのに、今のような、細い絹糸の五月雨が降るのだ」
 天気がこのような雨だからだろうか。アドレーの口調もゆっくりになっている。彼は静かに、そう話した。
 彼が何時もこんな雰囲気なら、篤だってアドレーを拒絶したりしないのに……と思うのだった。
 このまま、アドレーの隣で、他愛のない話をしながら、ずっと歩いていたい。
 家なんて着かなくてもいいのに……。
 しかし、篤の願いどおりにはいかなかった。
 どれくらい歩いただろうか。小さな畑が目立つ、人通りのない裏通り。肩を並べて歩く二人の前に、突如として、目映いほどの無数の光が現れた。
 円を描いた幾何学模様が空中に浮かび上がったかと思えば、そこからひとりの人間が落ちてきた。
 篤はほぼ反射的に落ちてきた人間に両手を伸ばし、支える。
 しかし、篤は特別運動が好きというわけでも力持ちというわけでもない。二人一緒になって、濡れた地面に倒れてしまった。
 年は篤よりも少し下だろうか。白の軍服を身に纏った身体は細い。しかし、篤のような貧弱ではなく、鍛えられていることがわかる。
 彼は襟足よりも短い黒髪に、細い一重の目にすっと通った鼻筋。への字に閉じている薄い唇は少し無愛想で、意志が強そうな尖った顎をしている。
「篤、大丈夫か? お前はクラウン……」
 落ちてきた青年を知っているようだ。アドレーは傘を差し出し、雨から守ってやると、怪訝そうな顔つきをして、篤にもたれかかっている彼を見た。
「……いたた。ああ、王子!! こちらにおられましたか! とても探したんですよ!?」
 クラウンという青年はアドレーを見るなり、一重の目をこじ開け、早口でそう言った。
自分の目の前で、いったい何が起こっているのだろうか。
 篤はぽかんと口を開け、アドレーと、それからクラウンという名の落ちてきた青年を交互に見つめる。
「この人と知り合い?」
 そう訊ねるのがやっとだった。
「ああ、彼はクラウンと言って、過去、俺が国から追放される前は世話役だったんだ」
「王子がお世話になっているようで、ありがとうございます。今は王の護衛隊をしております。以後、お見知りおきを……」
 頭を下げ、篤を組み敷くような格好のまま、そう言うと、クラウンは続けて口を開いた。
「アドレー様、今すぐ国にお戻りください! 王が――国は貴方様を必要としております。貴方様をこの世界へ送った後、しばらくしてからのことです。王は体調を崩されました。日に日に衰えてきています。次の王を決めなければなりません。義弟君ヒューバート様がいらっしゃいますが、側室のお子ということで、皆は納得せず、民と王族との対立が深刻化しており、国が不安定で危険な状態です。もし、このまま混乱が続けば、他国からの侵略も免れません!」
 クラウンは鼻息を荒げ、そこまでひと息に告げた。
「俺は勘当された身だ。今さら帰ることはできん。民を説き伏せるのはヒューバートの役目だ。俺が勘当された今、ヒューバートが正式な王位継承者だ」
「そんな……いくら国外に追放されたとは言え、仮にも、グラシオス・ラティオンの名を受け継ぐ、正当な王位継承者の貴方様がなんということをおっしゃられるのですか! 私の立場というものがあります。皆には、王子を必ずや説得し、国に連れ帰ると約束しました!」
「無理だ。俺には心に決めた妻がいる。妻を置いて国に帰ることはできない。」
 アドレーは大きく首を振ると、篤の肩を寄せた。
「えっ?」
 驚いたのは篤だ。これまで、まるでファンタジー小説か映画のようなセリフを呆然と聞いていたのに、まさか自分もその中に引きずられてしまうとは思ってもいなかった。
「それなら、奥方様もご一緒に……」
 そういうことならと、クラウンは篤に会釈した。
 さて、『妻』とは誰のことを指すのだろうか。二人から何やらおかしな単語を聞いた。
 その間にも、突っ込みどころ満載な言葉が飛び交っている。これでは、どこから正せばよいのかわからなくなってしまう。
「ちょっと待って! 俺がいつ、アドレーの奥さんになったの? というか、俺は男だよ? そこ、突っ込もうよ!!」
 篤が発言する間もなく、アドレーとクラウンが何の問題にもせずに話が先に進んでいく。篤は声を大にして反論した。
 そもそも、自分はアドレーに好きだと伝えただろうか。たしかに、エンペンくんには何時も言っているが、アドレーには告白していない気がする。
 頭では、アドレーがエンペンくんだということを知っているのに、同一人物だとなかなか受け入れられない。
「いえ、同性を奥方様に迎えるのは何も特別なことはございませんから。跡継ぎは側室の奥方様でもかまいません」
 それはつまり、アドレーは自分以外の女性とも寝るということなのか。
クラウンの言葉に、篤は怒りをおぼえた。
「じゃあ、アドレーは俺以外にも妻を娶(めと)るっていうの?」
 篤はアドレーを睨みつけ、怒りをあらわにする。
「いや、俺は篤意外に妻は娶らない。添い遂げるのはただひとり、愛しの君だけだ」
 怒りを含んだ篤の問いに、しかしアドレーはすぐに否定した。
 肩を寄せたアドレーの手に力がこもる。
「篤が来るというのなら、話は別だ。俺は喜んで国に戻ろう」
 これには篤も焦る。なにせ自分は一般国民だ。何がどうなって、アドレーと魔法が使えるファンシーな世界に行かなければならないのか。
 それに今、ようやく自分は会社の役に立つことができている。これまでの苦労が報われはじめているのだ。ここで自分の持ち場から離れてしまえば、せっかくの顧客もまた流れて行ってしまう。これではいったい自分は今まで何のために駆け回っていたのかもわからない。すべてが水の泡だ。
 なんとしてでも、この冬の商戦は上手く事を運ばせたい。そして充実した日々を送りたいというのが篤の強い思いだった。
「俺は行かない」
 篤は眉間に皺を寄せ、ぽつりと呟く。
「そういうことだ。皆には帰らぬと伝えておいてくれ」
 アドレーは深く頷いた。
「そ、そんな……。いいえ、皆の信頼を引き受けてきたのです。帰ることなどできません!」
「篤が行かないと言っているのだ。俺が戻る意味はない」
 このままでは、二人の意見はいつまでも平行線を辿ったまま、話が進まない。
「じゃあ、しばらくの間、狭いけれど、俺の家にどうぞ。行くところないんでしょう?」
 ここは屋外で、今は雨が降っている。いくらアドレーが傘をかざしてくれているとはいえ、下半身は雨風に曝(さら)されている。
 こんなところで常識外れな押し問答をされては困るし、このままでは三人とも風邪をひいてしまう。
 篤が自分の家に来ることを提案すると、クラウンの目が大きく見開き、輝いた。
 クラウンはとても凛々しい雰囲気があるが、彼は実はとても愛嬌が良いらしい。
「良いのですか!? ありがとうございますっ!!」
 篤の手を握り、何度も礼を言うクラウン。
「篤! 俺たちの愛の巣に、わざわざこんな奴を住まわせることはないと思うぞ?」
『愛の巣』なんて、どうしてアドレーはこうも恥ずかしいセリフをさらっと言い切れるのだろうか。聞いている方が恥ずかしい。
 いつもの篤なら、『愛の巣』などとこっぱずかしいセリフを言うアドレーに食ってかかるのだが、今はそれどころではない。降りしきる雨に打たれているおかげで、スーツがぐしょぐしょに濡れている。篤が動くたび水分を多く含んだ布が触れ、生理的に気持ち悪い。押し問答を繰り返すよりも、早く家に帰り、風呂に入ってあたたまりたいというのが本音だった。
「アドレーに会いに、わざわざここまで探しに来たんでしょう? 無下にはできないよ」
 この世界とアドレーたちがいた世界はどのくらいの距離があるのかはわからないが、おそらくはとても遠い筈だ。
 時間をかけて此処までやって来たのに追い返すのはどうかと思う。
 それに、アドレーの父親が危篤とあっては、事態は緊急を要する。
 アドレーにとって、この世で血の繋がった親は、もはや父親だけなのだから……。
 不服そうなアドレーだが、家賃などをはらっているのは篤で、いわば自分も居候の身だ。発言権はないことを知っている。アドレーは口をへの字に曲げて、唸るばかりだ。しかし、彼が気に入らなかったのはそれだけではなかったらしい。
「むうう。お前、我が妻に何時までくっついているつもりだ。離れろっ!」
 アドレーは手にしていた傘を遙か前方に放り投げると、クラウンと篤の身体を引き剥(は)がした。





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