メルヘンに恋して。
第二章





chapter:チェイサーは夜の闇に紛れて




(五)



「えっ? ここって家なんですか? 犬小屋かと思いました」
 篤はアドレーとクラウンを連れて玄関に入るとすぐ、クラウンが驚きの声を上げた。
「俺も初めはそう思ったが、俺を売ったあの老婆もこのような場所にいたから、もう慣れた」
 アドレーは、彼の隣で深く頷いている。
 侮辱ともいえる言葉に、篤は苛立ちをおぼえるものの、アドレーは王家の人間で、クラウンもまた、王家に仕えている重役のひとりだ。彼らにはなんの悪意もないのだと自分に言い聞かせる。
 が、しかし、それでも腹の底から沸き上がる苛立ちは抑えられない。
 篤は、雨に濡れてしまった服をクラウンに着替えさせるため、アドレーの服を一着、放り投げた。その後自分も着替えるため、自室へ行き、そそくさと私服に着替えを済ませた。
 それから篤は仕事用の通勤鞄から財布を抜き取り、玄関へと向かう。
「篤? 何処か行くのか?」
「犬小屋みたいに狭くて悪かったね。庶民にはわからない話をするでしょう? 邪魔者は消えるよ」
 篤は、付いてこようとするアドレーを振り払うようにそう言うと、足早に家を出た。その背後では、アドレーが何やら言っているが、とりあえず今は無視だ。
 篤はマンションを抜け、道に出る。見上げると、雨は一時的なものだったのか、依然として灰色の雲は空を覆っているものの、雨は止んでいた。
 これなら、もう濡れる心配はないだろう。
 アドレーたちには、『庶民』などと挑発的な言葉を口にしたものの、頭はとても冷静だった。
 アドレーが国へ帰ってしまう。
 それを考えると、篤の胸の中に、なんとも言えない虚しい気持ちが押し寄せてくる。
 なにせ、アドレーを好きだと理解してから差ほど時間は経っていない。
 アドレーに対する恋に気が付いてからの急な展開に、気持ちが付いてこないのだ。
 アドレーはいい。美形だし一国の王子で地位も名誉も、金だってある。好きな人も選びたい放題だ。
 好きな人なんてすぐにできる。
 けれど篤は違う。お世辞にも容姿がいいとは言い難いし、根暗だし、つい最近までは仕事もろくにできなかった。恋人なんて夢のまた夢だ。
 そんなダメ人間を何時までも想う筈がない。帰国すれば、きっと自分がいたことなんてすぐ忘れるに決まっている。
 現状では、アドレーは帰国を嫌がっている。けれどそれは彼を縫いぐるみに変えた父親とのわだかまりがあるせいだ。
 今は怒りにかっとなっていて、帰国を拒絶してはいるが、彼の頭はすぐに冷静になり、危篤状態の父親を看病するために帰るのは目に見えている。なにせ、彼にとって、血の繋がった家族は、もはや父親のみなのだから……。
 だとすれば、今頃はクラウンと帰国する段取りを決めているだろう。
 夕飯は何時もアドレーに頼り切っていたが、今日はそれも難しいだろうし、自分もこんな気分では夕食を作る気にもなれない。
 そういうことで、篤はとりあえず三人分のご飯をコンビニで買うことにした。
「ありがとうございました」
 三人分の夕飯を買い終えた篤は、コンビニを出た。帰宅しても自分の知らない、ふたりが知っている世界の話しているのだ。自分だけ除け者にされたような疎外感を覚える。自宅へと戻る足取りは重い。
 重たい足取りでいくらか裏通りを歩いていると、突然、強い耳鳴りがした。
 そうかと思ったら、目の前の視界がぐにゃりと曲がったような錯覚に陥った。
 通常なら、今の、この現象は目の錯覚で、目眩でも起こしたのだろうと考えるだろうが、アドレーという異世界の住人に出会った後だ。しかもつい先ほど、クラウンという人物も空から降ってきた。気のせいだとは到底思えない。
 ――果たして今回はどんな人間がやって来るのか。
 篤は目を瞬かせ、周りを見つめるが、別段変わった様子はない。
 空間が歪んだように見えたのも、目の錯覚だったのだろうか。
 しかし、どうも様子がおかしい。何処か、何かが違う。
 しばらく瞬きを繰り返し、ただ呆然と立ち尽くしていると、後ろから冷たい何かが篤の喉元に当てられた。
 篤の頭の中では、うるさいほど警戒音が鳴り響く。
 身体が強ばり、振り向くことは愚か、指一本でさえも動かすことができない。
 何故、こんなふうに酷く怯えているのか理解出来ずにいるものの、篤の本能は動くなと告げてくる。
 だから篤は目玉だけを動かし、『冷たい何か』の存在を確認した。
 篤の喉元に添えられたものは、鋭い刃。長さは八十センチほどだろうか。それを首筋に当てられていた。
 恐怖を抑えるために噛みしめた歯は、ガチガチと音を立てる。それでも必死にこの現状を理解すべく、もう少し目玉を動かし、恐る恐る相手を窺(うかが)えば、黒装束が見えた。背は自分と同じくらいか、少し高い程度か。
 何者かが背後に立っていた。
「王子を出せ。何処にいる」
 口を布で覆っているのか、声はくぐもっているものの、相手の年齢を特定することはできた。男だ。思ったよりも年齢は篤よりも上だろう。年はおそらく四十そこそこだ。野太い声をしていた。
「何を、言っているのかわからない」
 心臓が恐怖で大きく鼓動する。篤は震える声でなんとかそう言った。
『王子』と呼べる者は、篤の中でひとりしかいない。しかもこの国で、剣を軽々しく所持できない。けれども相手は篤に平然と刃を突きつけている。
 恐怖に捕らわれた頭は混乱し、黒装束の男が示している相手が誰なのか、『王子』とは誰を示しているのかすら、考える余裕はない。
「お前が匿(かくま)っていることは知っている。言わぬか!!」
 篤の喉元に、相手はいっそう刃を突きつける。
 冷たい、じっとりとした一筋の汗が、こめかみから頬を伝う。
「っひ!!」
 すっかり怯えきっている篤は、上ずった悲鳴しか出せない。
「言わねば、力尽くで聞き出すのみ!」
 男はそう言うと、篤の腰を蹴った。前のめりになり、地面へと無様に倒れ込む。
 頭上へと勢いよく振り下ろされる鋭い切っ先は空を裂き、うねりを上げた。
「っうわわっ!!」
 篤はそれでもなんとか体勢を整え、殺されまいと、地面を這うようにして転がる。
 切っ先が篤の右頬を掠めた。鈍い痛みを感じ、頬をなぞれば、指には鮮血が付着していた。
「さあ言え! 王子は何処にいる!?」
 仰向けになっている篤の喉元に、鋭い切っ先が突きつけられた。
 それでも恐怖で何も言えない篤は黙ったまま、ぜいぜいと喘ぐばかりだ。
 一向に答える気配を見せない篤に業を煮やした相手は、ふたたび長剣を振り下ろした。
 剣が唸る。篤はやがてやって来るだろう激痛を覚悟して唇を引き結び、死を覚悟して硬く目を閉ざした。
 けれども、痛みはやってこない。
 それに何かがぶつかるような、鈍い音がしなかっただろうか。
 篤は違和感を感じてそっと目を開ける。するとそこには、長身で、金髪の彼――アドレーがいた。
 アドレーは魔法で長剣を生成したのか、黒装束の男と刃を交えている。
「篤、無事か?」
 何度もぶつかり合う刃の音に入り交じり、アドレーが篤に声をかけた。
「アドレー、う、うん」
 アドレーの問いに頷くのがやっとだ。腰が抜けて立てそうにない。
「ご無事で何よりです。アドレー様が、篤様のお帰りが遅いとご心配なされ、迎えにやって参りました」
 腹這いになったまま、アドレーの後ろで固まる篤の隣には、アドレーと共に来たのか、クラウンがいた。
 彼は篤の抜けた腰をそっと支え、刃が届かない安全な脇道まで運んだ。
 喉が渇ききっていて、声が出せない。
 篤はただ、クラウンの言葉に小さく相づちを打ち、震えるばかりだ。
「貴方様からおいでなさるとは好都合! お命頂戴、覚悟!」
 男は刃を引き、ふたたび切っ先をアドレーに向かって振り下ろす。
 しかしアドレーは二度にわたって刃を受け止めた。
 夕闇の中、鋭い切っ先が鈍い光を放ち、拮抗する刃。互いに譲らない二人はそれっきり動かない。
「アドレー様、頬にかすり傷はございますが、篤殿はご無事です」
 アドレーを安心させるために告げたクラウンの言葉は、しかしアドレーはそれを良しとはしなかった。
「貴様、よくも俺の篤に!!」
 いくらかすり傷とはいえ、傷つけたことに変わりはない。アドレーの怒りは増す。
 怒れるアドレーは強かった。剣を大きく回し、相手の刃を静めた。
 アドレーは相手が体勢が崩れたその隙を狙い、ひと息に間合いを詰めると、喉元へと切っ先を突きつけた。
「お前は何者だ。何故、王から追放された俺を探し、命を狙う? 言え! 言わねばその首、はねる!」
「っひ、セ、セリオンヌ様がっ!! 実子ヒューバート様の王座を確実なものにするため、我ら傭兵を雇ったんだ」
 鋭いアドレーの剣幕に、相手は本気だと悟ったらしい。男は声を上ずらせながら、訊ねられた質問に答えていく。
 篤自身、これほどまでにアドレーの怒る姿を見たことはなかった。
「義弟、ヒューバート王子は義母上の謀反を知っているのか?」
 アドレーの切っ先が男の首元を狙う。
「っし、知らない。すべてはセリオンヌ様のご指示だ」
「俺がこの世界にいることは、義母上はご存知か?」
「それも知らぬ! お前の従者が空間を歪ませ、此処に着たのを追ってきたんだ」
 続けざまの尋問(じんもん)に、男は恐怖し、ただただ言葉を口から滑らせる。
「…………」
 どうやら尋問はひととおり終了したようだ。
 周囲には沈黙が生まれた。男の荒い息ばかりが聞こえる。
「この男はどのように」
 居心地の悪い沈黙を破ったのはクラウンだった。彼は逃げられないよう男の背後に立ち、主の命令を待つ。
「縛り上げろ。義母上の元に送りつける」
 アドレーは男の喉元から剣を引っ込め、鞘に戻すと、間抜けにも腰を抜かしている篤に跪(ひざまず)いた。
 篤の方へ、彼の手が伸びる。
「篤、ああ、頬に傷が……」
 先ほどの声音とは随分変わり、優しい声で訊ねてくる。
「へ、いき」
 大丈夫だと告げた言葉が震えている。
 しかし、この震えはアドレーの命を狙った刺客に襲われたからではない。アドレーは本当に王家の人間なのだと実感したからだ。
 自分とはどう足掻いても釣り合わない。
 そう理解した時、篤は伸びてくる手を弾いた。
 篤がアドレーの手を払う乾いた音が静寂を破る。
「俺、死にたくない。お前のせいで命を狙われるなんてまっぴらだ! さっさと出て行け」
 口にしたそれは嘘だった。
 アドレーはこの地にいるよりも王国にいる方がずっと似合っている。
 アドレートは身分の差がありすぎる。
 そう理解すると、胸が張り裂けそうに痛み出す。
「篤?」
 アドレーの手がふたたび伸びてくる。しかし、篤は言葉でそれを拒んだ。
「触るなっ! 大体、俺はエンペンくんが好きなだけで、アドレーなんてなんとも思ってない!」
 篤の言葉は刃となり、空気を切り刻む。
 けっして居心地がいいとはいえない沈黙が流れた。
 その日、アドレーとクラウンはひと言も話すことなく、コンビニで買ってきた弁当を無言で食べ終えた後、篤はひとり、寝室に戻りベッドに潜り込んだ。
 所詮、自分はただのサラリーマンだ。見目麗しいアドレーとは釣り合わない。
 布団を引っ被り、篤はアドレーに裏切られたような気分を味わっていた。
 噛みしめた唇からは嗚咽が漏れる。
 明くる日、泣き疲れ、いつの間にか眠ってしまった篤が目を覚まし、泣き腫らしたその姿のままリビングへ向かうと、そこには自分を襲った刺客も、クラウンの姿も、そしてアドレーさえもいなかった。



 ―第二章・完―


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